知について

MLでの討議で考えたこと。私の議論は、知識人(インテリ/亜インテリ)らを特権化するものなのだろうか。私としてはそういうつもりはなく、誰もが持っているはずの「限界芸術」的な知でDIYすべきだということを訴えたかったのだけれども。

実際、フーコー以降、「知」の外部はない(権力関係の外部がないように)というのは定説になっている。フーコーは、学問性(科学性)の基準を大幅に下げ、われわれの多様な言説的実践をそれとして取り出し分析する身振りをとった。(科)学者の言説が言説であるように、一定の整合性なり一貫性があれば、(科)学者ならぬ市井の人の言葉も等しく言説なのである。そしてそれら言説がエピステーメー=その時代の知の構造を構成する。こうした言説的実践は、(科)学者、研究者、知識人が独占しているものではなく、全ての人に開かれている。

だから無知なり非知というのは、所与のものなのではなく、むしろ創造されるべきものだ。忘却にしてもそうで、それは受動的ないし消極的ではなく、積極的行為なのだ。「知」などと呼ばれる既成の枠組み・制度から外に出ようとする特異な運動、それが忘却である。忘却と創造行為は緊密に結びついている。そしてそれは、狭義の(科)学者や知識人、アーティストのみならず、万人に開かれているのである。

「ノンエリート」にせよ何らかの知なり技術は持っている。企業適合的な「知」以外の「知」からも遮断される人間といっても、彼・彼女らなりに、情報を得、思考しているはずである。

思考の質ということに、ほとんど学歴は関係ないということは、私達の中でも最も刺激的な思索を公にしている人達が大学中退や高校中退であることからも明らかである。大卒以上の者らを特権化しているわけではない。むしろ、大学という制度の外で学ぶ場を構築したほうがいいという議論だと思う。手前味噌で恐縮だが、私があかねでやっている連続ワークショップも、大学なりといった制度に収まらない「学び」の場を作ろうとするものだし、それに例えばHOWSなどもそうなのではないか。

「企業適合的な「知」以外の「知」からも遮断される人間」「ノンエリート」も含めた(制度外的な?)学びの運動の場を作るといった方向で考えたらいいのではないかと思う。

補足。矢部史郎の発言で一番いいと思ったのは、「60億の思考が覚醒する」というくだり。これは、学者・研究者・批評家の知を特権化するものではないし、制度的な知を特権化するものでもなく、どんな人も持っているはずのその人に固有の草の根的な「思考」(私はそういったものが必ずあると信じている)を称揚するものだ。

拡張され一般化された「知」は、大学などの制度内の知のみならず、ありとあらゆる変則的で現場の知や技術をも包摂するものである。その意味で、例えばWhole Earth Catalogのような対抗的百科全書を作る必要があるし(そこには学問や文化と看做される言説のみならず、仕事の技術や、病いの当事者言説なども含まれる)、wikiはその課題に応答する技術である。

http://park.geocities.jp/ram_catalog/

エピステーメー/ドクサ

書いてから思い直したのだが、フーコー以後の思考としては、エピステーメー(真知)の構造を探求するよりも、ドクサ(臆見)、根源的な信憑の成立を問い返すほうが意味があるかもしれないと思った。後期フッサールでは、そもそも「世界がある」ことがウアドクサ(根源的臆見)であり、基本的な信なのだが、しかし後期資本主義社会においてその素朴な信憑=世界定立が再審に付され揺らいでおり、故にドゥルーズの『シネマ2』では「この世界への信頼」の回復が説かれねばならなかったのではないか。

などと、思い付きをメモメモ。

エピステーメー/ドクサ2

エピステーメからドクサに遡行するということは、科学的言説が構築する「客観的」世界から生活世界へと遡行するということである。つまり、われわれが日々言葉を喋り、他者と何かを交換し、労働し、遊ぶ、そうした時間-空間の論理と法のア・プリオリと歴史性を問うということである。

人間が人間である限り、言い換えれば身体構造などがサイボーグ化などで極端に変容させられない限り、共通な営みというものはあるだろう。が、縄文時代の人類と、例えば21世紀日本の人類が、同じ人間だからといって同じ生活を営んでいるわけではない。資本主義の発展と科学技術の発達が、古層の経験を隠蔽している。しかし人間そのものは恐らくそれほど変わらないわけだろうから、急速に発展する外的環境と人間の心身の間で齟齬をきたす場合が多いように思う。それが精神疾患などとなって表現されるのではないか。神田橋條治が書いていたが、人間の脳は約3万年前に完成していたので、その当時の刺激が最も脳の養生には良いはずだという。3万年前の人類の生活を想像するのは困難だが、われわれの本能ないし感性で、或る種「野生化」した音楽なり刺激を求めているのかもしれない。

エピステーメー/ドクサ3

「生の自然」を探し求めることは無駄だろう。自然は程度の差はあれ何処も産業化され機械化されている。ドゥルーズ=ガタリ流にいえば、機械状アレンジメントが実際に存在しているものなのだ。

生活世界は沈黙の世界、言葉以前の世界ではない。むしろ生き生きとした言葉が溢れ交わされる場所である。またそこでは、無数の習慣が、癖がつけられてはまた組み替えられていく。われわれは自らが生きる世界で、或る習慣を獲得し、且つ不断にそれを組み替える。われわれが酒飲みになったり、また断酒したりするように、われわれは習慣を組み替えることで自己を刷新する。自己とは習慣の束であり、可変的なものだ。

われわれが生きる世界では、科学者や合理主義者からすれば無意味ないし非合理ともみえるような要素が作働している。例えば「虫の知らせ」といった現象が起きたり、ちょっとした躓きから何か自らの生にとって根本的に大事なことを発見したりする。つまり、そこには発生状態の意味が溢れているのだ。

無能ぶりに悩む

哲学者としての無能ぶりに悩む。ミレイユ・ビュイダン『サハラ ジル・ドゥルーズの美学』(法政大学出版局)とルカーチ『歴史と階級意識』(白水社)が全く理解できない。読解力落ちてるなぁ。そういえばマイミク・でぶさんは廣松渉の「物象化」概念を批判していたが、ルカーチにも批判的なのだろうか?

サハラ―ジル・ドゥルーズの美学 (叢書・ウニベルシタス)

サハラ―ジル・ドゥルーズの美学 (叢書・ウニベルシタス)


歴史と階級意識 (イデー選書)

歴史と階級意識 (イデー選書)

ドゥルーズ『意味の論理学』、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』が改訳された版でも読めない、ジュネ『葬儀』が読めないなど読解力低下は深刻な問題だ。人生落ち込むよ!

葬儀 (河出文庫)

葬儀 (河出文庫)