エピステーメー/ドクサ3

「生の自然」を探し求めることは無駄だろう。自然は程度の差はあれ何処も産業化され機械化されている。ドゥルーズ=ガタリ流にいえば、機械状アレンジメントが実際に存在しているものなのだ。

生活世界は沈黙の世界、言葉以前の世界ではない。むしろ生き生きとした言葉が溢れ交わされる場所である。またそこでは、無数の習慣が、癖がつけられてはまた組み替えられていく。われわれは自らが生きる世界で、或る習慣を獲得し、且つ不断にそれを組み替える。われわれが酒飲みになったり、また断酒したりするように、われわれは習慣を組み替えることで自己を刷新する。自己とは習慣の束であり、可変的なものだ。

われわれが生きる世界では、科学者や合理主義者からすれば無意味ないし非合理ともみえるような要素が作働している。例えば「虫の知らせ」といった現象が起きたり、ちょっとした躓きから何か自らの生にとって根本的に大事なことを発見したりする。つまり、そこには発生状態の意味が溢れているのだ。