エピステーメー/ドクサ

書いてから思い直したのだが、フーコー以後の思考としては、エピステーメー(真知)の構造を探求するよりも、ドクサ(臆見)、根源的な信憑の成立を問い返すほうが意味があるかもしれないと思った。後期フッサールでは、そもそも「世界がある」ことがウアドクサ(根源的臆見)であり、基本的な信なのだが、しかし後期資本主義社会においてその素朴な信憑=世界定立が再審に付され揺らいでおり、故にドゥルーズの『シネマ2』では「この世界への信頼」の回復が説かれねばならなかったのではないか。

などと、思い付きをメモメモ。