性急な提案を反省〜あかね水曜ワークショップ

先日提案した、芸音ホールの出資・共同経営を募る件については、或る出品(予定)者の方から、経営の枠組みを大きく変えるのに出品者の方々にそれを告知しないのはおかしいと批判された。申し訳ないが、提案を撤回したい。そして、加藤宣子さんとの共同経営については、加藤さんとお話を進め、決定に至った後、出品者の方々にご相談し、承諾を得るという形にしたい。私のわがままな態度を深く謝罪したい。

ところで今日は、水曜1・3・5週目に行う「あかね」ワークショップの第2回目だった。おお(岡井友穂)さんに講師をお願いしての、失業者生産協働組合についてのワークショップ。多様な運動に関わっておられる方々が参加してくれ、盛り上がる。来週のワークショップにも期待したい。とはいえ、料理の出来ない、そして終電の早い(新京成電鉄)私の当番日、究極Q太郎さんとトミーさんのヘルプがなければ全く立ち行かないことも事実である。かれらに深く感謝したい。

失業者生産協働組合といっても、実際の起業を今すぐ・ここで目指すのではなく取り敢えずこうした話が出来る場を広げていきたいとのことで、実際の社会的排除の対象となっている「我々」が生きていける途をすぐに切り開くものではないとのこと。確かに、生産協働組合といっても、すぐに「連帯」したり起業したりするのは難しい、というのは言うまでもない。しかし、「潜在的な」失業者から「現実的な」失業者になってしまった私には、生き残り(サバイバル)の具体的実践の可不可が気になってしまう。そうしたことについて、おお(岡井)さんと今後とも討論し協働していきたいと思った。

ポストフォーディズムの生の条件

ポストフォーディズムの生の条件を問う書物。言語活動的領域を重視しているが、私としては、広告業界の「コンセプト」なる概念横領と「コミュニケーション」そのものに断固として抗議していたドゥルーズ=ガタリに共感する。マルチチュードが非代議的民主主義(ネグリ=ハートが絶対的民主主義と呼ぶのと同じもの?)の可能性を開くのは確かだとしても、その否定的側面もきちんと見ていかなければならないと思った。とはいえ、良書だと思う。☆4つです。

宿命の受容の両義性

ネオリベにおいて生がどのように変容していくか、を書いた本。「宿命的自殺」の両義性についての記述に惹かれた。ネオリベ的状況下において、アンダークラスの条件に置かれた者らにとって、「宿命」概念を受け容れることが両義性を持つという主張には頷ける。現代におけるサバイバルの方法について知りたいと思っていた私には、眼から鱗の面が多々あった。

【あかね】4/5(水)19:00〜「反戦、反グロ、DIY!──“自分(たち)でやる”ことのポリティクス──」

攝津です。来週の水曜日に、早稲田のフリースペース「あかね」にて、反戦運動等で活躍されているnoizさんをお招きして、以下のようなワークショップ企画を催します。多数の方のご参加をお願いいたします。

●日時:2006年4月5日(水)19:00-23:00

●場所:交流イベントスペースあかね
地下鉄東西線早稲田駅下車、徒歩3分)
http://akane.e-city.tv/
03−5292−1877

●料金:無料(チャージ200円、他飲み物・食べ物等注文をお願いします。)

(講師プロフィール)

noiz(のいず)…
01年、韓国で反徴兵を宣言して国家に追い詰められたアナキスト・ブンブンの支援で「社会」復帰。以後、微力ながら、海外派兵をやめろ!戦争抵抗者の会やACA(活動停止中)などへの参加を通じて、反戦運動、反グローバル化運動に関わる一方、DIYパンクの活動にも携わる。

(ワークショップ内容)

反戦、反グロ、DIY
 ──“自分(たち)でやる”ことのポリティクス──」

 戦争。それは対岸の火事ではありえない。私たちの生活もろとも破壊するごとき勢いの、この醜い〈戦争=資本〉の行き方に待ったをかけようとすれば、たちどころに監獄行きという状況があらわれつつある。抗議の声をあげ続け、ふと気がつけば、戦争の受益者たちとその先兵に包囲されているという事態。ただ生きようとして戦争に反対し、背後で蠢動しているグローバル資本の横暴を見たような気がしてはじめて気付く。自己決定という事柄はまるきりフィクションなのだと。
 いま私たちにできることはほとんど何もない。何も阻止できないし、何も決められないし、あらかじめすべてを奪われているかのようだ。〈自立〉という言葉は、「勝手に生きろ、さもなくば死んでしまえ」という権力者たちの「野蛮」な〈自己責任〉言説によって盗奪され、搾取され、さらに「〈戦争=資本〉のための生」が、さも唯一の選択肢であるかのように目の前にだらりとぶら下げられている。誰にも止められない戦争は私たちの生活そのものであり、〈グローバル化〉する巨大資本が人間を嘲笑しながら生を収奪し搾取する事態がそこに直結する。この連続ワークショップが指呼するように、私たちの生はまさに「死屍累々のサバイバル」だ。
 それでもなお、〈戦争反対〉だ、〈反戦=反グロ〉だと呼号するのなら、私たちのとるべき方図は〈自分(たち)でやる〉ことの方にしかない。誰にも預託しない。あるいは奪われたものを取り戻そうと試みる。それは私たちがただ生きようとするうえで係るあらゆる領域において必要となる、実践の倫理なのだと思う。誰のためにでもなく、自分のために、自分でやることをやろう。やれない要因と格闘しよう。──これがDIY反戦派からの挨拶です。

 さて、看板では大層なことを掲げていますが、ようは生活・労働・遊び・勉学・運動・その他すべての実践の局面でコアになるはずの、DIY=“自分(たち)でやる”というごくごく当たり前のことについて、改めてそれがいったい何であるのか、どういう意味を持つのかについて皆さんとともに考えてみたいだけなのです。当日はワークショップになるかどうかも怪しいもんですが、もう少しだけましに生きようとたくらんでいる人間と「通交」していただければ幸甚の至り。from Do-It-Yourself to ××!