花田清輝の小林秀雄論『太刀先の見切り』(1944年)

いろいろな理由で世の中のほとんどあらゆることに興味関心をなくしてしまったぼくだが、多少興味をそそられることがなにかあるとすれば、日本の文芸批評(文芸評論)、小林秀雄吉本隆明のことくらいである。ほとんどそれだけである。

文芸や文学、それも創作でなく評論(批評)というところにどのくらいの意味があるのか、またそれがなになのかというのはなかなかわかりづらいところではある。とりあえず、それは科学ではなく、政治でもない。そこまでは明らかだが、それ以上のことは不明である。

そういうわけで、午後にほんの少しいつものポスティングの仕事をした後で帰宅し、粉川哲夫編『花田清輝評論集』(岩波文庫)を開いて、その冒頭の小林秀雄論、小林秀雄批判(?)を再読したときに、以前読んだときよりも遥かに強いアクチュアリティと内容が感じられたのである。といっても、これはレトリックとレトリックの戦いである。何らかの科学、実在的・客観的な認識が問題であるわけでもなければ、言葉の通常の意味での政治が問題であるわけでもない。そうするとなにが問題なのかわからないが、終戦(敗戦)の前年、1944年だけでなく、現在もしばしば小林が非難されるところを見ると、なにも問題は終わっていないし、状況は変わっていないのではないかと思う。

花田の小林理解・小林評は、ぼくの見るところ非常に正確である。彼は(1944年=昭和19年の時点で)「昔から、かれは達人が好きであったが、とうとう、いまでは、かれ自身もまた、達人のひとりになってしまったのではないかと思われる」と書いている。勿論皮肉というか遠まわしの批判であることは申し上げるまでもないが、「周知のように、小林の繰返し説くところによれば、達人とは、理窟などに眩惑されず、自らの肉眼をもって、あるがままの対象のすがたを、適確にとらえることのできる人物を意味する」。

花田の論評はこう続く。「理窟をふりかざして斬りかかってくる小林の論敵が、今日まで、ことごとく敗北してしまったのに不思議はない。こちらは相手の理窟ではなく、理窟をあやつっている相手の肉体を、つねに一刀両断にしようと狙っているのだ。こういう小林の試合ぶりが、皮を斬らせて肉を斬れ、肉を斬らせて骨を斬れ、骨を斬らせて髄を斬れ、という柳生流の極意にかなっていることはいうまでもない」。

これを小林を賞讃する発言と受け取ってはならない。逆である。花田のレトリックにそれこそ「眩惑」されず、ごく常識的に普通に考えてみれば、まず学問であれ政治であれ、はたまた文芸であれ、論争や議論などはそもそも剣術の試合のようなものなのだろうかという当然の疑問が湧く。それだけではなく、「理窟」で攻めてくる相手のその理窟に反駁するのではなく、その「理窟をあやつっている相手の肉体」を斬る、撃つのだというのは、通常「搦め手」と呼ばれるようなものである。人身攻撃とか人格攻撃、はたまた、対人論証などなどと呼ばれるものであって、そこからそもそも古代以来の詭弁や弁論術からみるべきだというぼくの意見になってくる。

当然批評家として花田はそういうことを承知しており、自分は上述の小林の逆を行くのだということは随所で述べている。「申すまでもなく、私は、批評家というものを、厖大な理論の背後に、かがやいている眸をみいだすような人物ではなく、眸のきらめきにさえ厖大な理論を夢みるような人物だと考えているわけだが、そういう批評家は、所詮、この世では、余計者にすぎないであろうか」。「しかし、柳生流の極意は未熟な私には、なかなか一朝一夕では会得しがたく、いまのところ、私は、我流ではあるが、肉を斬らせて皮を斬り、骨を斬らせて肉を斬り、髄を斬らせて骨を斬るつもりである」。

ということなのだが、逆に、花田は(左翼言論人の多くがそうであるように)社会科学や政治イデオロギー、「理論」的観点から小林を否定しているのでもないのだ。そこに花田の「楕円」=複眼的(両義的)思考がある。上述のような愚直な批判としては、誰でも戸坂潤の『日本イデオロギー論』などの当時の左翼の論客による小林批判を想起するであろう。いまだにその手の御意見を読むことは多いが、だがしかしである。そこには花田の複眼的思考や両義性、アイロニカルなレトリックが欠如しているだけでなく、「たとえ正論であっても敗北しているのではないか」という健全な懐疑もまた欠けている。これは実証性がなく、だから検討しても致し方のない仮説だが、もし、柄谷行人らがいうように(『近代日本の批評 昭和篇』)、当時の小林が左翼(共産主義者)にとどまらない広汎な言論人・文化人による結集を考えていたが、戸坂らの教条主義的な批判に直面してうんざりして諦めたのだとすれば、果たして上述の「正論」(?)は実に愚かだったということにならないのだろうか。そうして、もはや詮索しても仕方がない戦前の状況などではなく、今日においてもやはりそれは同じなのではないだろうか。花田の小林論は分量こそ少ないが、坂口安吾の『教祖の文学』と読み比べたくなる佳品である。ぼくはそう思った。

花田清輝評論集 (岩波文庫)

花田清輝評論集 (岩波文庫)