懐疑派(3)

例えばNAMであるとか、その後たまたま遭遇した首都圏左翼の人々労働組合とか九条の会とか。エコロジスト。3.11以降の脱原発派。誰も信用していないのだ。それからそもそも大学時代に遭遇したり目撃したあれこれの連中。左翼といえば、革マル派ノンセクト共産党(民青)だが、僕は全員嫌いだった。今でも同じだ。自分の経験と判断以外のものは決して信用しないのだ。だから先程申し上げたのは、そういうプロセス総体が完全な無駄だが、そういう無駄は避けられないので、人生は空費されるしかないということだ。別の表現をすればこうだ。とりたてて批判的な意識や疑問を持たず、それ自身のうちに安らいでいる実体的な生活があったとすれば、次には批判的な段階がやってきたのかもしれない。だが、果たしてそれはどうなのだろうか? 僕は最終的には、気質というか性格というか、生き方そのものの根本的な相違と断絶、溝しか見出さなかったが。