懐疑派(4)

要するに自分の判断と絶対的な意志(=決断)を守り抜き貫徹せねばならない。僕はそう思った。ただそれだけのことが、どうしてそこまで困難で甚だ激しい苦痛を伴うのか。それは分からない。分からないが、当たり前のことだが、世の中、社会には僕だけが存在しているわけではない。政治的な人々もそうではない人々も大量に膨大に存在していて、そして他人に干渉するので、それに異を唱えたり抵抗したり、または払い除けるだけでも手間が掛かる。非常に大変なのだ。自分自身が信じる、というか、或る程度妥当だと思う圏域に留まり、そのなかを動こうというだけでも、余りにも大変なことなのである。それこそ他者たちとの不断の苛酷な闘争が必要だ。僕はそう思うのだが、そこまでややこしいというか非情なイメージを持っているのは僕だけなのか? それこそ観察によれば、99%の人々はもうちょっと気楽にごく普通に生きているが、そうはいってもそれはもうほとんど《運命》であり宿命なのだと申し上げるしかないだろう。非情な苛酷だけが最後の答えであるということは。または、人生の結論であるということは。《否定》に定位し、否定にのみ生きるという絶対の決意は。別に勘違いした意味で「文学的」とか、またはおかしな意味で(擬似実存主義的な意味で?)「哲学的」、「思想的」というわけでもないだろう。遥か昔から、それこそ物心ついた子供の頃から、どこまでも断乎として自分というか己れを貫くのだという意志を持っていたが。そして、38歳になった現在もそうなのだ。そうであるというか、なおさらますますそうなのだというだけである。