懐疑派(続き)

こういうことは全くの時間と労力の無駄、とんでもない回り道だろう。だがしかし、そういう無駄は避けられないというか、僕は個人的に避けられなかっただけだが。要するに、現状なら現状があるとすれば、それに批判的にあれこれ思ったりどうにかしようと思うとする。だが、そういう認識や実行が間違いかもしれないと疑って日常に復帰し回帰するというなら、最初から批判的なスタンスを取らなければいいじゃないか。ごく普通に人生を楽しんりゃそれだけで良かったはずだろう。何をそんなに10年以上の無駄が必要なのか。転向(conversion)とか何とかいう以前に、オルタナティヴを志向し、だがしかしやめるということ自体が無意味で無駄だろう。どうしてそんなことをしなければならないのか。そして経験と認識は、とりたてて深刻な悲劇ではなくても、漠然とした悲哀、哀しみというか、「これはもうこれ以上どうにもならないのだ」というどうにもならない諦念を齎すのだが。僕は別に幼少の頃から、また、十代、二十代の若い頃から現在に至るまで、全く政治的ではないが、そうするとそういう自分を貫く必要があったのだろう。そうとしか思わないが。