懐疑派

ちょっと懐疑的になるのが遅過ぎたかもしれないが、3.11以降非常に懐疑的になっている。それも日々ますます懐疑的になっているが、(一部の)脱原発派やエコロジストだけでなく、左翼・左派を含めたオルタナティヴ全般に不信を募らせているが、要するに、先程もそういう意見を読んだが、例えば、IAEAならIAEAのような国際機関が常に正しいとも限らないでしょう。それはそうだが、そういうものを批判している個人や団体の主張をどこまで信用していいのか。とりわけ、自分自身が特に専門的な知見もないような領域でね。原発放射能被曝だけじゃないだろう。アベノミクスなどの経済政策もそうだ。皆さんは余りにも自信たっぷりに自説を主張されていますが。あれこれ断定されていますが。でも、僕は保守的というか懐疑的だね。というのは、まあこういうことを申し上げるのもつまらないが、古代以来、というか、人類がものを考えるようになって以来ずっと、今に至るまで独断論懐疑論という異なる傾向があったはずだろう。近世とか近代も。現代、現在も。今に至るまでずっとね。被曝などの物理的/生物的/医学的現実、また経済現象について、我々は何をどこまで確実に知ることができるのでしょうかね。そうして、どういう振る舞いが相対的に妥当なのでしょうか。余りにも迂遠だといわれそうだが、そして実際にそうですが、3.11以降僕にとってはそういうことがますます重要になってきているし、そうすると、僕は基本的には独りで孤立して暮らしているわけだが、自分自身のありとあらゆる意味での独立性を頑として守り抜かなければならない、という決意にも繋がってくる。そして平凡な日常を含めて、常にリアルな認識を心掛けなければならないという思いも新たにしています。非常につまらないことなんだけどね。一体全体、何が自分にとってリアルであるのか。別にとりたてて世界の終わりというようなことではないのは明白だ。オポチュニストというか日和見主義だと言われそうだが、僕は昔からそういうことを思っていたというか感じていたのだ。9.11とかイラク戦争とか、何だとかかんだとか。3.11のときもね。つまり、世界とか日本が大変なことになっている。それは報道やネットを通じて分かっているが、しかし外を歩けばその眺めは余りにも平穏で暢気なのだ。殺伐として緊迫した報道なり情報と、今自分が見ているものといずれが現実なのか? それは両方現実なのだというべきだろう。アフガニスタンイラクで戦争になっていても、東北で3万人が死んで原発が事故を起こしていても。また、国内外の貧困や格差、南北問題がどうであれ、僕が見ている船橋の人々はあたかも何事もない(なかった)かのような顔をしてその辺を歩いているのだ。僕にはそういう眺めがいつも不思議だった。3.11以降もそうだ。震災直後の余震や混乱や計画停電などが少し収まった後だが、新宿などを散歩して街並みやビルディング、行き交う人々の群れを眺めてその変わらなさに驚いたのだ。これは余程のことがなければ変わることがあり得ない現実だろう。そう思ったのだ。