シュトゥッツマン/シューマン:詩人の恋、女の愛と生涯

6時間くらい前に寝たのかな。先程目が醒めてナタリー・シュトゥッツマンという女性歌手の歌でシューマンの歌曲、『詩人の恋』『女の愛と生涯』を聴いているが、これが非常に素晴らしい。クラシックというかロマン派の歌曲。本当に心に沁みるし、こういうものばかり聴いて暮らしていれば幸せだね。今日は午後からレッスンだし、明日は午後と夕方と二つレッスンが入っている。金曜日は暇だが土曜日はまたレッスン、日曜日はライヴと、少し予定が入って詰まってきたのは嬉しい限りだ。生徒がいらっしゃらない空き時間にはポスティングもしなきゃいけないしね。それから読書とか。あれこれあるんだが、今たまたま手に取ったのは正岡子規の歌集だ。岩波文庫の『子規歌集』(土屋文明編)。まあ短歌といっても僕は、子規、与謝野晶子斎藤茂吉寺山修司塚本邦雄くらいが好きだというごく常識的で凡庸な趣味なんですけれどもね。明治以前の和歌もあれこれ好きだが。古典がよく分かって味わえるわけではないが、折に触れて読んでいるし、そうすると、『万葉集』、源実朝西行などが好きだし、また、中学・高校以来『百人一首』が好きだね。例えば『源氏物語』を全部読もうとすると長いし大変でしょう。それは中々自分としてはよーやらんというか、プルーストの『失われた時を求めて』を全巻読破するのが大変だというようなレヴェルでさ。和歌や短歌だったら、また俳句などであれば、本当に理解できるかどうか、味わえるかどうかはともかく、「読む」ことは比較的短時間でできるはずなのだ。まあ小説であれ哲学であれ、余りに長大なものを読破するのは暇と精神的余裕がなければできないよね。哲学だったらどうなるのかな。ヘーゲルの『大論理学』とかか。そういう膨大な体系ですね。最近哲学書もほとんど読まないな。そういえば、昨日子規の『墨汁一滴』(岩波文庫)を再読して、彼が大学時代、哲学の試験に苦労した話を面白く読んだが、そういうことに困惑するのは明治の子規も今の日本の大学生も全く同じだね。教師、先生が外国人か日本人かも関係ないだろう。というのは、哲学の試験ってのは、正解と不正解がはっきりあるようなものなのか? 子規が書いていたものでいえば、「サブスタンスのレアリテーはあるかないか」。そんなのサブスタンス(実体)なりリアリティ(実在、現実)の定義によるとしかいえないだろう。そしてそういう相対主義的、懐疑論的な答案じゃまずいんじゃないの。そうすると、とりわけ専門に哲学なら哲学(の歴史)をやってない学生さんたちは、じゃ、試験にどう返答すりゃいいのか、と困惑することになるだろうね。

詩人の恋&女の愛と生涯 ?シューマン : 歌曲集

詩人の恋&女の愛と生涯 ?シューマン : 歌曲集