Jim Hall "Concierto"

少し横になってうとうとしたら夢を見た。高校生に戻ってグラウンドで体育の時間である。ピアノストのクリヤ・マコトが体育の教師になって出て来るが、彼が、どういうわけか生徒たちにネクタイを締めて整列し直せと叱る。だが、生徒たちの多くと同様、僕もネクタイは最初から締めてこなかった。そういう夢である。

目が醒めてからウエルシア薬局にちょっとした買い物に行く。両親のための焼酎や煙草である。それを購入してからすぐに帰るが、当然の如く外は好天、快晴である。大変気分がいい。自宅から出て県道を左に鎌ヶ谷大仏方面に歩くと、すぐ左手にペットの東葛がある。その向かいにはTSUTAYAがある。それの隣りがウエルシア薬局である。ぶらぶら散歩しながら、あれこれ考え事などもする。CDウォークマンで少々国府弘子さんのCDを何か聴いていたが、すぐ止めてのんびり買い物する。

帰り着いてからゆっくりと冷水シャワーを浴びたが、それがもうほとんど日課になっている。夏だし、時間を掛けて丁寧に洗って流す。他方、夜はどうも疲れていて眠り込むことが多い。シャワーから出て、日本茶を啜ってから、ジム・ホールの『アランフェス協奏曲』という好きなアルバムをCDウォークマンで聴きながら、岩波文庫セネカ『人生の短さについて』を開く。これは茂手木元蔵という人の訳だが、Amazonで調べるとこれは旧訳のようである。その後新しい翻訳が岩波文庫に入ったそうだが、そちらは僕は読んでいない。

それはそうと、ポストモダンや歴史の終わりについてつらつら省察するに、自分にとってはそれは形而上学的な思弁の問題ではなく、全てが終了し、既に価値が確定した過去であるということだと思う。ジャズにせよ、基本的には新譜は買わない。もう古典となった過去の名盤だけが問題であり、ジム・ホールのこれもその一枚だが、僕はこういうものを取り出しては繰り返し繰り返し愛聴している。それこそ何十年も。そして、そうやっているだけで無意味に人生は過ぎ去っていく。これを幸福な人生と呼ばずして何と呼ぶのか。人生には、およそ、これ以上に望み得ることは一切何もないのである。

先程漠然と夢見たのは、普遍的なアクセス権というリオタールの夢に似た夢想である。つまり、今のところ、Amazonで便利になったのだとはいっても、それでも、或るアーティストのCDを全部蒐集するのは大変である。パウエルならパウエル、エヴァンスならエヴァンス、ホロヴィッツならホロヴィッツ、マイルスならマイルスの録音を全部調べて集めるのはあらゆる意味で大変なのである。だが、将来はそれがワンクリックでダウンロードできるようになるだろう、と予想した。それが僕のささやかな夢である。そして、それだけである。

Concierto

Concierto