「すべからく」の誤用

昨日の「すべからく床屋は馬鹿である」の「すべからく」の用法が間違いである、「すべからく」を「すべて」の意味で用いるのは誤用だとcyubaki3から指摘していただいたが、そういうことをあれこれ指摘してくれる友人の存在は実に有難いものである。というわけで「すべからく」を用いることはできないが、こう思った。「すべて理想主義者の希望や期待は必ず裏切られる運命にある」のではないか。昨日の都議選の結果にそう思ったということだが、そうはいっても、上述のような事態の必然的法則などあるはずがないので、要するに最近はそうだということ、革新やリベラルに連なる人々の敗北が相次いでいるのだということ、直接誰それに投票しろというのは難しいので、せめて、投票率アップを訴えても、投票率さえも上がらない。僕は思うが、僕自身は投票はしたほうがいいと考えるのであっても、投票を強要したり恫喝するような、投票しなければ、選挙に行かなければ、あたかもまともな人間ではないかのようなキャンペーンはみんなの反撥しか招かない。「選挙に行かない男とは別れるべき7つの理由」とか。こんな下らない馬鹿げた議論があるのか。いま、投票は別に罰則の裏付けをもって国民/市民に義務づけられてなどいないのだ。棄権、白票、無効票を投じることさえも権利である。なぜならば、上述の、「投票に行こう」というお節介な(大きなお世話の)キャンペーンをやっている連中は、みんなが投票に行って、自民党などの保守/極右や新自由主義政党に入れたり、白票・無効票を投じることは期待していないからである。暗黙のうちに、共産党社民党民主党か生活の党、緑の党に投票すべきことを期待しているのだが、余りにも自分に都合のいい発想だというべきだ。投票は自由なのだ。投票するかしないかも、誰に、またどこに投票するかも。