この門をくぐる者は一切の希望を棄てよ

僕は希望を持たなければならないなどというわけのわからぬ倫理(?)は一切持ち合わせないし、ニヒリストだろうと絶望していようと何だろうと構わないと思っている。ということではこれが面白い。野崎歓カミュ『よそもの』 きみの友だち』(みすず書房)。ここでも気になるのは、例えばカミュアルジェリアという問題で、野崎氏が紹介しているところによれば、サイードの『文化と帝国主義』に収められている一文がそのことに触れているそうである。

それはともかく、僕はダンテの『神曲』「地獄篇」の有名な言葉が好きだが。「この門をくぐる者は一切の希望を棄てよ」。別に地獄の入り口の門に限らず、持つべきではない(少しも現実味がない)希望なんかは全部棄てたほうがいいと思うが。《希望を持たなければならない》、オプティミストでなければならない、陽気さは素晴らしい、快活さは、などという発想がどこから生まれたのか僕には分からないが、近代の左翼、社会主義者マルクス主義者たちだけでなく、古代であればセネカ『人生の短さについて』の「笑う人」デモクリトスと「泣ける哲学者」ヘラクレイトスの対比が想い出される。つまり、人間の愚かさを見てヘラクレイトスは泣いたが、デモクリトスは笑った。我々はデモクリトスを真似すべきである……。

いやはや、だがしかし、そうなのだろうか。そうとも限らないとも思うが。我々は一切の希望とともに、喜怒哀楽などの人間的感情も棄て去るべきなのではないか、という『ゴルゴ13』的に(?)非情なことも考えてみる。「非」情、無情、《非人情》だろうか。感情移入、自己移入を拒むということ。感情移入ではなく《抽象》(「中傷」ではない)。《自分ヲ勘定ニ入レズ》(宮澤賢治の『雨ニモ負ケズ』だが、この一節を「自分ノ感情ヲ入レズ」だと勘違いしている人が非常に多いと柄谷行人は『批評とポストモダン』に収められたエッセイで指摘していた)。恐らく、我々は種々の死を潜り抜けて、機械、マシーン、ロボット、ゾンビ、ミイラ、亡霊のような非人間的な主体(存在)になるべきなのであろう。《精神的自動機械》。この奇妙な表現はスピノザのどこかに見られる。『エティカ』ではなかったと思うが。初期の『短論文』か『知性改善論』、または書簡だが、物質界だけでなく精神的な観念の連結や順序、秩序もまた必然的に決定されているのだという、自由意志を否定する彼らしい発想ではあるが、その内実や意味は現代の我々にはよく推測しかねるところである。