感想

自分なりのつまらない感想だが、ポストモダニズムへの批判や非難は倫理的だが、どう申し上げればいいのか、現状に照らしてリアリティを感じない場合もある。そのことについて先程目醒めたときにたまたま考えていたことをメモしておく。

20世紀の終わりくらいの柄谷行人の整理、つまり、ポストモダニズムとそれへの批判をリオタールとハバーマスの対立という図式で捉えようというものについてである。ウィトゲンシュタイン解釈として妥当かどうかは存じ上げないが、無限に多数で多様で、そして互いに通約や翻訳が不可能な言語ゲームの総体があるというリオタール。他方、対話的、コミュニケーション的な理性を強調するハバーマス。

最近の近代主義者たちがいずれに与しているのかは申し上げるまでもないが、リオタールの意見はそんなにつまらないものなのだろうか。時代的には多少ズレているが、現在の資本主義の、例えば「成熟社会」的なありようにおける生産と消費やマーケティング、商品開発の問題として捉え直してみた。

要するに、僕の考え方ではポストモダニズムは消費社会とイコールでなくても、極めて密接な関係があり、経済的基礎をそこに持っている。既に1984年の柏木博『カプセル化時代のデザイン』のポストモダンに関する論考も整理していたように、それはいわゆるフォーディズム、大量生産・大量消費の見直しと一体なのである。近年であれば、民主党政権のブレーンであった経済学者小野善康教授の「成熟社会」論を参照すべきである。

要するに、現代世界、とりわけ日本では、家電や自動車など旧来の主力商品はそれぞれの個人や家庭は大体既に持っているので、そういう意味で大規模に大量生産しても商品はそれほど売れなくなってきている。そうすると、企業の市場戦略としては、いわゆるニッチな需要、少数で小規模で特異な需要、欲求を捕捉することを志向する、個々人を微細に掌握するマーケティングであらざるを得ない。そうすると、そこでの消費者の欲望は極めて多数で多様で特異であり、一般的で必要不可欠なものというよりは趣味的なものだから、或る特定の品目の特定のモデルを一気に大量生産すればいいわけではなく、多品目少量生産になる。ということは、スケールメリットもないから、価格を廉価に抑えることも難しい。

販売や流通としては、例えばインターネット、それもAmazonのようなサイトが中心になってくる。

とりあえず今朝はここで筆を措くが、かつての、そして現在のポストモダニズムにはそういう現代資本主義の状況や環境が関係している(だから、単に倫理的に非難しても致し方がない)と考える次第である。