感想

清水晶子さんという方、ジェンダーとかクィア論とかフェミニズムの方だと思うが、彼女が萩上チキなどの『社会運動の戸惑い』というバックラッシュを調査し考察した本について、こういうことをおっしゃっていた。著者の一人の「現実」という言葉の使い方に疑問だと。僕が疑問に思うし一番ダメだと思うのはそういう態度である。確かに認識論上の、また方法論上の手続きの問題はあるでしょう。だけどどうみても「現実」は言葉とは別にそこにあるし、そして一つだろう。だけど、そういうことを否定する屁理屈が嫌いだということです。それは要するに、その現実を認めたくないし受け入れたくないというだけのことなのではないですか。それでも構わないが、だったらそれを知的、学問的な衣裳で粉飾するのはやめていただきたい。

僕は纏まったものではないが、一定の考え方を持っている。その一つは有名な方を煩わせないということである。誰でもいいです。文筆家だけじゃなくて政治家だったら、福島瑞穂氏、菅直人氏、三宅雪子氏。小沢一郎氏には会いに行こうと最初から思わないのでお名前を挙げませんでした。また、湯浅誠氏のようなオピニオンリーダー

どうして彼らに会いに行こうと思わないのかということについて少し書いてみましょう。具体例を挙げたほうがいいと思いますが、福島さんが憲法24条についての書籍かブックレットを出版されて、それについての意見を広く募集したことがありました。それにひびのまことさんが批判的な意見を送った。つまり、男女両性の平等というけれど、性別は男女の二つではないのではないか、という内容です。福島さんからの返事はなかった。

僕は福島さん(憲法第24条)とひびのさんのいずれかの意見に全面的に賛成だとか応援するということでは全くありませんが、自分なりの考え方はあります。ありますが、別に福島さんにお会いしようとか、意見を送りつけるつもりはありません。そんなことをしても無駄に決まっているからです。そもそもそういうことに有効性や意味があるのであれば、最初からひびのさんに返事を書いていたはずではないでしょうか?

それは別に無視とか黙殺ということではなく、物理的な情報量の問題なのです。文筆家であれ政治家であれオピニオンリーダーであれ、彼らが交際したり接触したり影響している人数は半端ではないでしょう。それは非常によく分かる。僕なら僕の個別の意見や疑問に一々まともに時間を割いて付き合ったり応答したり、まして最初の見解を変えたり修正する余裕もない。または、最初から変えるつもりがそもそもない。

それは分かりますので、そういう無駄で無意味なことはしないのです。上に挙げた人々のような超多忙ではないはずの活動家連中も同じです。例えば、一時期、9.11の後などに、ダグラス・ラミスの娘のまやラミスが反戦活動をしていた。それはいいのだけれど、彼女が一度国分寺のカフェスローにやってきたことがある。僕は彼女に訊ねたいことがあったので訊ねてみましたが、彼女の返事は「そういうことはもっと上のほうの人に訊いて」ということに終始していた。

お前はバカかというか、他人の意向や指図でしか動かないロボットなのでしょうか。僕はそんな誰だか分からない上のほうの人の意見じゃなくて「あなたの」意見を訊ねたんだけどね。そういう下らない結果にしかならないなら、最初から対話なんかしないほうがいいでしょう。

NAMでも柄谷行人と個人的に対話したことはないし、そんな必要も感じませんでした。彼は多忙だろうし、ですから煩わせるつもりもない。それはそれでいいのですが、彼の取り巻きの文化人連中やイエスマンなどよりも自分の意見のほうが遥かに妥当だったという自信はある。大体、柄谷さんに限らず、周囲にイエスマンや信者連中しかいなくなったら人間おしまいです。個人だけでなく、団体や組織もそうなのだといえるでしょう。

岡崎乾二郎さんは柄谷さんに同意できないところが多々あっても、友達だからとか、親友だから、友情がどうのこうのということでしたが、そんな友情が一体何か。そんなものは個人の問題だろう。他人に関係ない。そういう下らない「情」を持ち込まないでほしいしそれで動かないでいただきたい。世の中というものはあなたがたの下らないサロンのオモチャではないのですよ。それが永久に分からないからダメなんです。それは別に文化人や知識人、著名人でなくても誰でもすぐに分かりますから。そういうことはね。しつこいようですが、憲法九条はサッカーのルールのようなものだから、それが変更されたら試合を放棄してもいい、国籍離脱の権利もあるなどという呆れた理屈は一体なんですか。そんなものが憲法を護ることに繋がるとでも思ってるの。だとしたらとんでもない傲慢だ。岡崎氏に同感する田口卓臣氏、倉数茂氏、王寺賢太氏なども全員そうである。つまり、彼らは護憲派としては完全に失格だ。そういう意見や言説で憲法を護ることは絶対に不可能であることは自信をもって断言できます。最近の実に呆れた議論、平和的生存権から避難を考えるとか、そもそも立憲主義を批判するという理屈についても、こんなものは百害あって一利なしの謬説だ。本当に呆れ返るしビックリする。一体誰がそんな空論に説得されるのか? 放射能被曝の問題は憲法と関係ないでしょう。「科学的」そのものが抑圧? ふざけるな。そんな下らない倫理で世の中動かないのだ。そういうことをあくまで主張したければ個人で避難して下さい。社会を巻き込むな。

言葉は単にコミュニケーションや伝達の手段、道具ではない。そんなことは僕だって百も承知です。ですが、だったら、どうしてポエムやそれに類したものを書かないのですか。僕は別に大学人じゃないし、論文や著作の体裁や形式、文章や文体、構成などを考える必要がない。そういうことは一切全部度外視しているし、内容だけが重要だ。誰かに会いに行くつもりもなく、ただ単に自分だけで独自に考えています。それでいいじゃないか。表現を美しく磨いたところで内容とは関係ない。

一つ例を挙げてみよう。いーぐるというジャズ喫茶の後藤雅洋さんが云っていたが、彼は廣松渉の愛読者だそうです。ところが、廣松の著書の構成にはとんでもない美学がある。章立てが全部三部構成のトリアーデになってるとか、見出しの字数がきちんと整って揃っているなどですが、確かにそういうことはすごいし読んでいて快感も覚えるだろう。だけど、内容と無関係ではないですか。僕はそう思う。それは別に廣松の著作に限らず全部どういうことについてもそうだと思います。