サラリーマンとしての総統

Facebookに書いていたから、ブログでは連続性は途切れるが、民主主義の存立の条件であるところの市民的な徳の問題を、転向と関連させて考察するが、その前に、ハンス・エーベリンク『マルティン・ハイデガー 哲学とイデオロギー』(青木隆嘉訳、法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス 484)が言及していたハイデガーの総統(=ヒトラー)を「サラリーマン」と読んだ箇所を確定したかった。だが、探したが分からなかった。念のために、エーベリンクを確認しておく。

《「道徳的憤慨」というレッテルを貼られると、「総統」に対する道徳的、実践的な非難はすべて見当違いだということになってしまう。というのは、全体主義的であれ民主主義的であれ、権力を獲得している指導者はすべて、総統とひとしく「存在放棄の空虚さを保証するために、存在者の無条件な利用という事態の進展の内部にいる一流のサラリーマン」にすぎないからである。総統は技術者として、技術時代の総体である《集成(Gestell)》の中の指導的サラリーマンだと解釈され、そのため道徳的−実践的には非難できない存在なのである。総統は「存在放棄の空虚さ」のうちにいるからである。総統がその他の点で非難の余地もなければ責任を負うこともないのは、彼には全く責任能力がないからである。》(94−95ページ)

引用箇所には29番の原注が付けられている。それを参照するとこうである。"Ebd., S. 96." この略号の指示の意味を確認したかったが、僕が何度も調べても、見落としなのか発見できなかった。

マルティン・ハイデガー―哲学とイデオロギー (叢書・ウニベルシタス)

マルティン・ハイデガー―哲学とイデオロギー (叢書・ウニベルシタス)