表現の自由とその限界〜文化的自由主義を巡って

今週は表現の自由とその限界という主題を取り上げる。広くいえば、(文化的)自由主義とその限界ということである。実に瑣末なというか、どうでもいいことだと思われるだろうが、端緒として今話題にされているふたつの事柄を取り上げる。ひとつは、AKB48峰岸みなみの丸刈り騒動である。もうひとつは、会田誠問題である。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130129-00000034-flix-movi

「ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)は25日付で、森美術館に抗議文を提出した。同団体は、会田の諸作が児童ポルノや女性蔑視、障害者差別、さらにはわいせつ物に該当すると指摘しており、全裸で四肢を切断されている少女たちを描いた「犬」シリーズなど、「差別的で暴力的な作品」を公共性を持った施設が公開することを問題視。インターネット上でも公開されている同抗議文の中で、同団体は作品の撤去を求めている。」

これが瑣末だと思われるだろうというのは、現在は、改憲(阻止)及び(脱)原発、(反)貧困などの遥かに重要な政治課題があるではないか、と訝しく思う人が大多数だろうからである。それはそうだが、幾つかの理由でこれを取り上げたい。

ひとつは、自由とその制限、制約という普遍的な問題であることである。

ふたつめは、特にAKB48のほうだが、国際的にも広く報道され、狭く芸能界を超えた問題になっていることである。

みっつめは、例えば過去の柳美里石に泳ぐ魚』裁判のような事例ともリンクするからである。また、Chim↑Pomの「ピカッ」論争も想い出さないだろうか。

よっつめは、自由主義とそれを批判する立場、例えばマルクス主義との関係という問題があるからである。

というわけで、考えていきたいが、まず会田誠問題から考えたい。これには幾つかの立場から意見が出されている。

ひとつめは、会田に抗議するフェミニストたちである。

ふたつめは、それに対して表現の自由を擁護する人々で、北夙川不可止、武盾一郎などの文化人、アーティストである。

みっつめは、鈴木健太郎の意見であり、彼は「文化的自由主義」を批判する。鈴木は、表現に国家の規制を望まなければ社会的批評が必要だという。そして、会田の表現の質を問題にする。つまり、それは実に陳腐な芸術でありポルノグラフィなのだ、と。

上述のように整理したうえで、私の意見を申し上げれば、会田の表現を問題にするならば、そこでは倫理・道徳、または美風良俗だけでなく、美意識や趣味も問われざるを得ない、ということである。そして、芸術や芸能、サブカル、またはポルノでもいいが、そこに政治であるとか法、倫理、道徳がどこまで介入すべきなのか、ということである。

会田の諸作が陳腐なのか、下らないのかどうかということは私は問題にしたくない。それを実際に観ていないし、仮に観たところで私の意見は自分の個人的感想に過ぎないであろう。国家による規制なのか社会(民衆)による批評なのか……それについても何ともいえない、ということである。だがしかし、残酷で猥褻なものも含めて、表現の自由は可能な限り最大限保障されるべきだ、というのが私の「自由主義的」な意見である。仮にそれが内容的にみてどうか、という場合も含めてである。これは「価値判断を抜きにした」話である。

もう一つ、自由主義リベラリズム)ということだけでなく問題になるのは、欲望という位相であり、そこには必ずしも高尚ではない次元が含まれる。それから私が大事だと思うのは、当人ではなく他者たちの欲望や感情が問題だ、ということである。

欲望という位相というのは、会田の残酷で猥褻な表現が享楽を含むだろうということであり、AKB48峰岸みなみにしても、その坊主頭に萌えるという意見が複数出されている。ここには、反撥や嫌悪にせよ、その逆にせよ、欲望の問題があるのである。さらに加虐/被虐という問題、SMに繋がる問題系もあるであろう。そして、倫理的な人々は、かつての梅本克己がそうだったが、加虐/被虐、サディズムマゾヒズムという用語も持ち出されただけで侮辱されたと憤る場合もある。だが、そういうことではないのだ。いかなる事柄にも欲望の次元、または、快/不快の次元がある、ということが、それほど穢らわしいことだろうか。私はそうではないと思う。

他者たちの欲望や感情というのは、会田の場合でいえば、その表現が誰かを模写したものかどうか、または彼の想像なのかは分からないが、(存在するとして)モデルではなく、それを鑑賞した人々の不快感が問題だということである。峰岸みなみであれば、彼女は自ら丸刈りにしたそうだが、そういう彼女自身の選択を超えて、その丸刈りということが様々な事柄を連想させたことがこれだけ大きな、過剰ともいえる反応に結び付いている、ということである。様々な事柄というのは、一つは、少し前までの日本では丸刈りは特に子供たちに加えられる懲罰だったということである。また、それは日本以外、例えば戦後すぐのフランスでも、対独協力の女性への懲罰や見せしめとして使われた。

根拠がない嫌疑かもしれないが、峰岸みなみの一件について、やらせだとか炎上マーケティングだ、と謗る人々もいる。私は事実関係は分からないからコメントは差し控えたいが、それはさしあたりどちらでも構わない。これは労働問題だ、という労働組合、人権問題だ、という人権団体は、「ネタにマジレスかっこ悪い」のだろうか。そのことも私は問題にしたくない。

政治的な利用主義ではないか。また、他者をネタにした享楽ではないのか。━━そのことも幾ら穿鑿しても結論は出ないであろう。私自身は、それが何であれ、芸術であれ、芸能であれ、ポルノであれ、基本的にはその価値は個々人が判断すべきだ、という原則だけを主張したい。介入は最小限にすべきだと思うのである。余りぱっとしないが、とりあえずこのことだけ申し上げることにしたい。