吉本隆明の性愛観

それから、吉本隆明の性愛観ということだが、以前、鈴木健太郎さんへの御返事で申し上げたように、彼は60年代には「対幻想」という表現で男女のカップルの関係性を称揚し、80年代にはドゥルーズ=ガタリ浅田彰から拝借した「n個の性」という概念を多用していた。だが、そもそも50年代はどうだったのか、と申し上げればこうである。

別に「ラディカル」を気取る必要もないから、保守的であってもいいだろうとは思うが、彼は自分のスタンスの保守性、常識性、大衆性を強調する。彼は、自由恋愛やフリーセックス、性解放などには反対である。反対までではないかもしれないが、少なくとも興味はない。経済生活にも結び付かない普遍的な売淫、というような表現をしていたが、そういうものには興味がない、というのである。

そして、彼はこう述べる。自分はごく普通の大衆として埋没したい。ごく普通に女性と出会って恋愛し、結婚して家庭を築き、子供をもうけて育て、年老いて死んでいく。そういう存在でありたい、と。

勿論、これはこれで立派な考え方である。それはそうだが、彼のようにしたいと「思わない」人々も沢山いるであろう。吉本氏自身は、彼なりがイメージするごく普通の大衆という存在に同化したいと望んだ。だが、みんながそうしたいと思うかどうか、そうすべきかどうかは別問題である。それは、狭く性の問題を超えて、彼が提出した「大衆の原像」とか、それを自己思想に繰り込むのが知識人の課題だとか、知を否定して非知(自然や大衆が想定されている)に還帰すべきだ、という意見が問題になるはずだが、別にそうしたいと思う人々がいてもいいとしても、それが絶対に正しく優位がある唯一の立場であるはずがないと思うのである。

また、理屈としてはほとんど論証も何もないに等しいが、彼は天皇制の背景に、彼のいう倒錯的な性、同性愛を想定している。が、これも極めてありふれたステロタイプと申し上げるしかないであろう。