夢の島

追想に生きる生。過去的な存在。《過去は、そのものとしては、もう無い。》━━それは確かにそうであろう。それはそうだが、不在のもののimageはあるのである。実際に描かれたもの。または、想像力で描かれたもの。視覚的なものだけが問題なのでもない。五官の全てに開かれた記憶の貯蔵庫。

記憶の貯蔵庫。想い出の墓。

墓地。理念的な(観念の)墓所。そこには過去的な存在の遺骸だけが葬られ、いつまでも保存される。眺める人も訪れぬままに。記憶の墓を掘り返す者は誰もいない。そこにおける宝物は……いや、宝ではなく、ゴミとか屑かもしれない。あのゴミ屋敷の住人のようなものだ。

私は以前、(夢の島)と申し上げた。東京にある夢の島は、名前は美しいが、ゴミが集められ、そこに廃棄される島である。夢の島公園。そこにおける殺人。憎悪犯罪……。私は事件の少し後にそこに赴いてもみた。だからといって、特に何をするわけでもない。究極Q太郎氏とビールを酌み交わしただけだ。

究極氏と過ごした夏の或る日。池友さんという女性と彼女の娘、ゆっぴいもいた。我々は海水浴をしたのである。真夏の太陽の陽射しに肌を焼かれて、ひどく痛かった。赤く腫れた身体を裸のまま横たえ、海の漣とか、砂浜に寝転がる、究極氏の躍る肉体。私は死者と生者のことを両方考えた。

つまり、その憎悪犯罪に巻き込まれた被害者と。究極氏が語ってくれた、あかねにおける最初の死者、《探究》君のことを。彼がどうして、自殺したのか、という動機や事情については、ずっと後にそれを知った私には、合理的に推測したり理解する方法はなかった。私は単に歴史として理解しただけである。

(死んだ探究と生きたQさん)と私は考えた。そして、非常に気持ちの良い真夏の海水浴場。大量の海水浴客。太陽の光。海。砂浜。公園。冷えたビール。そういったものを私は愉しんだ。今から10年前、2003年のことである。その後、私は、池友さんやゆっぴいに再会することはなかった。

そういうことについての私の意見や感情は余りにも暗澹として不吉であった。漆黒の闇と真昼の太陽。余りにも乾いて明るい光。一切を乾かしてしまうような。事物から一切の影というものを取り除いてしまうような。そういう真昼の真夏の光。私にはそれはそれで気持ちが良かった。昔のことを想い出した。

死者、それも自分とさほど関わりもなかった死者たちについての夢想と瞑想は、その後も10年以上果てしなく続けられた。私は目を瞑って、もはや不在の彼らのことばかりを考えていた。誰にも会いもせず。独り言ばかりを呟いて。━━誰もいない場処で。存在しない話し相手に向かって。虚無に向けて。

死者、または失踪した人々。いなくなってしまった人々。姿を消した。また、去った人々。不在の誰か。数十年前の記憶。遠い想い出。消え去る微かな映像。墓標としてのimage。記念すべきものとしての。記念碑としての記憶の映像。人々の死と不在。虚無。無━━ナーダ。ナーダのためにナーダを……。