小説を考える

実は、全く別のことについて書くつもりだったのだが、話が大幅にずれてしまった。言語表現、特に性表現について書くつもりだったのである。昨日少し吉本隆明を読み返したが、彼が江藤淳の『作家は行動する』、及びそこで取り上げられていた「若者作家」について書いていた。それは当然、当時の石原慎太郎も含まれると思う。

吉本は「若者作家」たちの表現について触れるにあたり、まず、田山花袋の随筆、いわゆる自然主義的な考え方を述べたくだりを引き、こう言っていた。これは当時にあってはラディカルであり、人々に衝撃を与えたが、十数年とか数十年経過すると陳腐なもの、微温的なものとみなされるようになった。自分は最近話題の「若者作家」たちもじきにそうなるのではないか、と予想する。

私は彼の予想は的中したと思う。『太陽の季節』、『完全な遊戯』などについて、塩見さんなどのように「ブルジョアの坊ちゃん」とか、たかおんさんのように非倫理的だと咎める人々はいても、そこにおける性や暴力の描写が凄いからびっくりする、という人はいまや誰もいないであろう。最近の人々が、ちょっと興味を持ってそれらを読んでみるとしたら、意外にも普通の小説だと思うはずである。

そういうことを私は、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』についても考えるが、それは当時の読書界に衝撃を与えたはずである。だが、現在だったらどうだろうか。そして、村上龍以降現在に至る作家たちの作品はどうだろうか。勿論、私も、ここ30年くらい書かれた日本の小説を全部チェックしているわけではない。それはそうなのだが、それ以降の表現について自分が知る限りのことをあれこれ考えると、初期の高橋源一郎島田雅彦のようなものでなくても、主知的なというか、そういう傾向の作品が多いような気がするのである。そうではない人々もいるが。

そこでは、性ということは直接主題にならない場合が多いし、なるとしても、例えば松浦理英子である。私は彼女の作品では、性は生々しさというところからは遠く離れていると思う。それは彼女なりの仕方で思弁的、倫理的、また美的な問題なのではないか。というふうに、『ナチュラル・ウーマン』、『セバスチャン』については思うが。そして、彼女以降はどうだろうか。

純文学以外の、大衆小説、中間小説を含めた言語表現。また、言語以外の表現を考慮すると、私は性表現は飽和していると思う。芸術ということではなく、単に性を愉しみたいならAVを観ればいいであろう。また、そうしないとしても、インターネットには、有料、無料の無修正の性行為の動画(異性愛であれ、同性愛であれ)も幾らでも転がっている。日本国内には法規制があるが、海外のサーバにはそういう動画が無限にあるし、インターネットだから、海外のものを視聴するのも簡単なのである。そういう視聴覚的なコンテンツに、純文学であれそれ以外であれ、言語表現が敵うはずがないであろう。私はそう思うのだが、違うのだろうか。

そうすると、性を対象や主題にするのであれ、それ以外であれ、もはや生々しさや激越さといった方向では勝負にならないし、お話にならないのではないか、と思うのである。