見憶えのある喜劇

お題は「見憶えのある喜劇」ということだが、今はとりあえず岡井友穂氏という美術館系の方について書きたいが、彼は「真の保守主義者」を名乗っていた。ところが、よくあることだが、彼は別に保守的ではなかった。それはまさにアイロニーなのである。つまり、革新的とかラディカルというのだったら、もっと凄いことがあるでしょう。私なんぞは保守的、保守主義者ですよ、というような、謙遜と申し上げればいいのか……。ぼくにいわせればそれは謙遜ではないのである。最近の中村順氏の「穏健な資本主義者」もそうだが、岡井氏、中村氏はむしろ現状に批判的な人々である。そういう彼らがそういうアイロニーや逆説に訴えなければならないのだ、というふうに考えるべきであろう。

ぼくは自分は彼らの百倍は保守的だと思う。彼らはあれこれ「いいこと」をやっているのである。非常に知られた人々だし、立派で有意義なことをやっているのだ、ということであろう。保守的ということはそれとは違うと思うし、ぼく自身は最近「反動の論理」ということを申し上げた。そして、穏健ということはともかくとして、資本主義者という表現は理解できない。自分は社会主義者だ、という人々はいても、資本主義者だという人々はいないはずである。資本家だったらいるであろう。ということは、資本主義は主義(イズム)ではないのではないか、ということだろうし、中村氏の意図を推察し汲むならば、それはごく普通の表現で申し上げれば自由主義者、リベラルということだろう。だが、それならば、そう云えばいいのに……。ぼくはそう思うが、違うのだろうか。

ま、それはどうでもいいことかもしれない。実際、どうでもいいであろう。言葉の問題だからね。ただの表現の問題。用語の問題。自由主義者というか、資本主義者というか。中村氏が云っているのは、自分は暴力(的なこと)は嫌いだ、ということである。彼は別に革命を起こそうとはしない。彼なりの表現では、「いのち第一主義」である。彼はそういう自らの信念から、先日の東京都知事選で宇都宮健児氏を熱烈に支持していた。生活保護問題に取り組む心優しい人である中村氏には、宇都宮氏の「人に優しい政治」が非常に好ましく思えたのだ、ということである。それは多くの人々が共感するところではないかと思うが、どうしてその「優しさ」が実現しないのか、勝利しないのか、ということは、ぼくには全く分からない。ぼくは非情や残酷、無常などがどこをどうみても満ち溢れていると考える。それは何も偏見などではない、と思うのだが、如何だろうか。

アリョーシャといっただろうか。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に非常に善意の心優しい人物が登場する。年少の弟という設定だったのではなかっただろうか。それはそうなのだが、ドストエフスキーが遺したノートによれば、彼は将来、ロシア皇帝を暗殺するテロリストに成長する、という予定になっていたそうである。それはただの文学であり、虚構である。それはそうなのだが、優しさというものが辿らなければならない一つの道筋を暗示しているのではないか、とは思う。ぼくの意見では、素直さは勝利しない。敢えてこういう表現を採用すれば、現実は、現実の歴史は苛酷なのである。そう信じているが、それは違うのだろうか。