やわらかい能力者

久しぶりの「即興小説トレーニング」。お題は『やわらかい能力者』である。このテーマについて思いつくことは特にないが、まず、『柔らかい時計』というSF。それから、バロウズの『ソフト・マシーン』である。「能力者」という日本語をそれほど我々は使うだろうか? 「超能力者」だったら使うが。

それはともかくとして、このお題からは離れて自由に書くしかないが……。まず、ぼく自身の目標というか理想。達成できない意図として、「死ぬほど通俗的なテーマを空疎な美文で」というものがある。空疎な美文。だが、美文ですらないかもしれないのだが。装飾的な修辞を望んだとしても、実現できないかもしれないのだが。もっともっと趣味を極めなければ、と思った。美文と呼ぶに相応しい作家を沢山読むべきだ。尾崎紅葉幸田露伴樋口一葉泉鏡花。それから、江戸時代の戯作などである。

ありもしない内面を払拭する、という人々は不徹底である。そんなことを云うなら、まさに内面がないような書き方を見出さなければならないはずである。そういう人々が近代主義を否定したいのだとすれば、実際的にそうすべきではないか。ぼく自身はそうするつもりである。つまり、単に言葉の上のことだとしても(それ以外に何があるのか?)、実行するのである。

さっちゃんという活動家の女性。Twitterで半年ほど前に結婚して東北に移り住む、と書いていた。花&フェノミナンというバンドをやっている。あかねにもいらしたことがある。彼女が、暇潰しとして山東京伝黄表紙を現代語訳したそうだ。それはつまり、純粋な暇潰しとしては、何か意味ありげなことではなく、まさにその逆をやったほうがいい、という意図に基づくものだった、と彼女は書いている。ぼくはそれを読んで、へえ、と思ったが、別に意味ありげだろうとあからさまに意味なしだろうと、どっちでもいいと思った。ぼくの意見は彼女とは異なり、戯作の外部であれ、意義があることなど一切何もありはしないのだ、というシニシズムである。近代を信じない、ということは、意味なり価値を信じない、ということである。それがぼくの揺るがぬ信念である。自分は子供の頃からずっと数十年パロディとアイロニー一本でやってきたのである。真剣さや崇高さといった次元はなかった。一切が遊びであり、重要なことなどはなかった。今なおそれはありはしない。今後もないであろう。道楽。数奇者。そういうあり方で生きてきたし、今後もずっとそうだ、ということである。暇潰し。それはぼくにとっても大事なテーマである。というよりも、唯一のテーマだ。いつか死ぬまで、やることが何もないから、どうやって時間を消費するのか、ということ。ただそれだけ。それ以外、何もない。

それがぼくなりのさっちゃんへの答えである。彼女は黄表紙以外の何かを信じている。だが、ぼくは信じない。そういうことである。こういうふうに、過去に出会ったあらゆる人々に対して、その後非常に長い時間を費やして想像上の対話を試み、自分なりの回答を提示する。勿論、そんなことをしてもその相手は別に耳を傾けないであろう。その人が読むこともないだろう。それはそれで全く構わないのである。何しろ、ただの自己満足なのだからね。