歴史の可知性についてのノート

歴史の可知性について考えてみた。もう少し説明すれば、過去の経験を再構成する方法ということである。私は同性愛について考えていた。その歴史について、自分なりに「おおよそこうであろう」という意見ならあるが、それを超えて実証するのは難しい。実証というほどのことでなくても、主観的な信念を超えて他者に共有していただけるような枠組みを構築するのにはどうすればいいのか、ということについて考えた。

私は東郷健氏の『ザ・ゲイ』、南定四郎氏の『アドン』について想い出し、それが伊藤文學氏の『薔薇族』のライヴァルだったということも想い出した。そうするとそこからその後の展開も自動的に連想したが、その次はテラ出版の『バディ』。それから、インターネット時代、ケータイ(スマートフォン)、現在である。上述のこと以前についても遡って考えてみた。売春防止法が施行され、赤線地帯が解体されて新宿二丁目が誕生した時。それ以前。戦後。戦中。さらにそれ以前。明治維新以前以後。江戸時代。そこまで考えてみた。それより前のことについては、私の知識や情報では十分にリアルに思い描くことはできない。

歴史の「可知性」とか経験の再構成可能性というのは、以前ジャズや音楽の美学を問題にしたときに申し上げたように、何らかのマテリアルという物質性、記録がなければ、過去についてリアルに知ることは不可能だと思うからである。上述の雑誌などの書かれたものという意味での記録を除けば、後は証言しかないだろうが、多くの人々は歳を取り、高齢になり、そして死んでいく。数年前、5年以上前だが、ライターの伏見憲明氏が歴史を書く試みをやっていた。彼は『バディ』に連載していたが、戦後の日本のあれこれの同性愛者たちにインタヴューして証言を集める、という手法を採用していたが、私は関係者の高齢化と死去との時間比べ、競争だと思った。そして、関係者がもはや生きていない戦前とかそれ以前、明治・大正とか、江戸時代以前のことについて、どうすればもっと具体的に把握し認識できるのか、ということを今考えているところである。