午前4時の思索

私は10代の後半には、20世紀の終わりの20年程に日本でちょっと人気だったものをよく読んでおり、それは例えば浅田彰などだが、それからちょうど20年くらいが経過した現在、どうなのかといえば、それはこういうことである。当時子供だった私は、そういう著述に、倫理的な、或いは美的な生き方、少し「格好いい」何かを空想していたと思うが、そういう意味での美学が全くどうでもよくなった、ということである。

つまり、これこれこういう行為はダサい。または、悪趣味である、というような美的判断に無関心になった、という意味で、それが自分にとっての最も重要な変化である。倫理的な当為、美的な価値をどうでもいいものとして放擲してしまうようになったのである。現在の自分は非常に自然にありのままに生きていると思うし、それは(東浩紀のいうような高尚な意味ではなく、ごく通常の意味で)動物的だとも思うが、それで構わないと思っている。

それは非情さやリアリズムの獲得といってもいいだろうが、そのリアリズムというのは、文学史的な意味とか、または政治的な意味ではないような気がする。現在の条件をそのものとして洞察し、受容するようになったということで、それは諦念なのだろうか。私にはよく分からないが、執拗な観察、注視、「眺めるということそのもの」だけが生の時間を構成しているように感じる。