大分県の想い出

今こそ地方の時代へ、大分県から千葉県……と申し上げてみても、僕がそれらの地域のことをよく存じ上げているというわけではない。僕が大分県を離れたのは小学校を出た年であり、1987年のことである。その後何度か、帰省したことはあるが、もう大分県のリアリティは全く分からなくなっているといってもいい。そして、千葉県では僕はずっと船橋市に住んでいるが、千葉県とか船橋市のことを熟知しているのかといえば、それほど知らない。数十年間住んでいるのにも関わらずである。そういうわけで、地域主義とかローカルなどを語る資格は僕にはないのだが、気紛れにFacebookを更新するうちに30年前のことをふと想い出し、懐かしくなったのである。

幾つか整理してみたいが、小学生の頃の僕の記憶では、当時の大分県は「鉄冷え」と呼ばれる長期の不況にあった。戦後、新日鉄の工場が大分県のどこかに出来、それが主力の産業だったのだが、或る時期から振るわなくなったようなのである。2012年の現在なら、そういう重工業が全てではないとか、もっとオルタナティヴな発想も色々あるだろうが、当時にはなかったといってもいい。

ただ、1979年に、当時大分県知事であった平松守彦氏が「一村一品運動」を提唱し、大分県内各地の特産物、名産物を全国に売り込もうとした。いわゆる町興しとか村興しであり、それは現在よくいわれるようなスロー運動の先駆者だと思うが、当時我々大分県民にとっては平松知事は有名人であった。

整理すると、大分県内の製鉄業、鉄鋼業は下火であり、他方、一村一品運動が提唱されていた。また、別府市は今も昔も有名な温泉街である。全国各地から観光客が来るし、外国人もやってくる。そういうものが大分県では盛んだったが、今現在スローという文脈で有名なのは、湯布院であるようだ。湯布院とか竹田とか何とかは、大分県のなかでも少し奥まったところにあり、大分市別府市ほど開けていないというか、開発されていない。現在はそこが却って人々の眼に魅力的に映っている、ということだし、よく知られた「湯布院アルゲリッチ音楽祭」などの素晴らしい文化的なイヴェントもある。湯布院は現在、大分市別府市を抜いて一気に文化都市として注目されているのである。

それから、民話として、吉四六さんものというのがあった。吉四六さんは江戸時代の農民という設定だと思うが、大分県内のどこかの村に住んでおり、様々な地域の困り事を彼の頓知で解決するのである。そういう民話や伝承は恐らく日本各地にどこにでもあると思うが、その大分県ヴァージョンが吉四六さんだということである。それはともかく、そういうものは、現在のようなスローというよりは、民俗的な世界といってもいいと思うが、どうもそういう懐かしい世界のリアリティや感触が失われてしまったようにも感じるのである。