犬の生活

はてなダイアリーに書いていたが、理由も分からず、全部消えてしまった。長文だったのだが、歳を取ると、偶然の思いつきとか、一瞬の閃きなどを信用しなくなるものである。つまり、或る思想や意見は極めて長い間考えてきたものだから、何度でも展開できるはずだ、と思うものである。

さて、本題に入れば、私は古代ギリシアのキニク派のディオゲネス、通称「犬」のディオゲネスについて書いていた。ギリシア語のキニクというのは近代語のシニックであり、よく否定的に語られるシニシズムの語源である。では、彼においてその実践はどうだったのかといえば、例えば彼はプラトンの同時代人であり、「ディオゲネスは狂ったソクラテスであり、ソクラテスは正気のディオゲネスだ」といわれていたが、ソクラテス的な生き方と称されていたものをほとんど戯画の域にまで誇張して演じてみせたということで、彼は樽に住んでいたといわれるが、現代でいえば野宿者、ホームレスのようなものだが、彼は別に経済的にそれほど困窮していたというわけではなかったようだ。

ディオゲネスの生涯には幾つも奇妙な逸話があるが、まず、彼は父親とともに貨幣偽造のかどで都市国家を放逐されている。それはどうも、何かの神託の誤った解釈に基づくものだったようだ。そして、彼の批判とかアイロニーが、「貨幣を変造する」というギリシア語と語源的に関わりがあったようだ。

ディオゲネスの思想と実践を簡潔に要約すれば、まず、彼はプラトンアカデメイアの講義について、次のような嫌がらせをしたといわれている。或るとき、プラトンが、人間とは羽根がなく二本足で歩く動物だ、という意味のことを述べたそうだが、そうするとディオゲネスはそこに、羽根を毟った鶏を放り込んだそうである。

また、彼は常に棒を持ち歩いており、それで失礼な人々を打ちつけたりもしていたようだが、19世紀のニーチェのハンマーによる哲学とか、20世紀のアルトーの杖などを想起させる。ニーチェは実際には、文字通りハンマー、鉄槌で哲学したわけではない。アルトーは、彼が神秘的で魔術的な力があると思い込んでいた杖を持ってアイルランドを彷徨い、彼を取り調べようとした警官に殴り掛かって拘束され、その杖は紛失してしまった。ドゥルーズは、ディオゲネスを禅の導師に比較している。

思想的には世界市民主義である。世界市民主義のルーツは、ソクラテスの少し後の哲学状況にあるのであり、それは一方でストア派であり、他方、キニク派のディオゲネスである。ソクラテスプラトンを考慮すると、アリストテレスもそうだと思うが、彼らは深くポリス的な人間であった。近代的、ルソー的な用語を時代錯誤的に用いれば、市民、公民であることを誇りにしていたのであり、アテナイならアテナイに帰属していたのであって、そういう態度はソクラテスに最も顕著である。ところが、そのソクラテスを戯画的に誇張したディオゲネスコスモポリタンなのである。

コスモポリタン世界市民主義は、カント『永遠平和のために』など近代の産物だと思われるが、実は古代に起源があり、しかも、肯定的な理念というよりは、ポリスの崩壊というような現実と対応していた疑いが強い。このことは、保守派からの世界市民主義への批判、つまり、個人から、国家や民族を飛ばして、一挙に世界市民とか人類に飛躍できるのか、という非難を考えるうえで重要である。例えば、安倍晋三氏がそういう批判を『美しい国へ』で展開しているが、保守主義的な常套的論法のようだ。

もう少し丁寧、或いは執拗にいえば、世界市民主義の裏面は具体的でローカルな共同体の解体とか、シニシズムである可能性があるのである。そこに高邁な理想主義しか見ない高踏的な態度は足を掬われると思う。20世紀後半以降においては、それは"Think globally, act locally."などと変奏されている。だが、地域の次元は具体的でも、地球規模の世界の問題は、まずは抽象とか観念としてしか把握できないということを考慮すべきである。

http://en.wikipedia.org/wiki/Think_globally,_act_locally

話を戻せば、私が書こうと思ったのは、次のような逸話である。

ディオゲネスは上述のように、ホームレスのような暮らしをしていたが、或るとき、都市国家の広場で、公衆の面前で自慰をした。そして、「ああ、お腹がひもじいのも、こうやって撫でるだけで治ればいいのになあ」と言ったということである。

それはただそれだけの逸話だが、そういう彼のユーモアないし皮肉を、四角四面に受け取って恐縮なのだが、私が考えたいのはこういうことである。ディオゲネスはそこで、食欲と性欲を並列しているが、両者には本来的な相違があるのではないか、ということであり、また、一般に、人間の満足は身体的で生理的なレヴェルではなく、意味の次元にあるのではないか、ということである。少し比喩的にいえば、我々は意味を食べているのである。

食欲と性欲の違いというのは、後者には愛と呼ばれる曖昧な次元が関与しているということであり、愛について古代と近代以降では考え方が違うのだといっても、やはりそこには、ただの生理的な快楽に還元できない要素があったのではないだろうか。ディオゲネスギリシア神話の神々の名前から、「アフロディーテのこと」という言い方で性欲や愛欲のことを言い表しているが、ギリシア語では、精神的な愛はアガペー、肉体的な愛はエロースと呼ばれるが、両者の関係は微妙である。例えば、プラトンの『パイドロス』で第一義的に問題にされるのはエロースであり、他方、『新約聖書』の神の愛はアガペーである。

愛とか性といった次元には、大雑把に精神的な次元と身体的な次元と呼んでおきたいそのふたつが関わっているということだが、それだけならば、人間が関わること全てがそうだと反論されるかもしれない。それはそうだが、私は、愛及び性、そして芸術作品の経験は特権的だと思うのである。それらにおいて、広い意味で美的な経験が問題になっていることに注目すべきであろう。

私が美的な体験を重視するのは、それが異なるふたつの領域、例えば感性的な領域とそれ以外(以上)のもの、意味の領域の媒介をなしているからだ。それはプラトンにおいて顕著だが、彼以降もそういう見方が繰り返し思想史において提示されるのであり、例えばカントの『判断力批判』、ヘーゲルの『美学講義』はどうだろうか。そういうドイツの哲学者、特にヘーゲルは美を仮象とみなした。仮象というのは、贋者とかインチキとかいうことではなく、現れ出るもの、輝くもの、映るものなどであり、シャインである。ところが、ベンヤミンは『ゲーテの『親和力』について』で「美は仮象ではない」と述べているそうだ。このことはよく熟慮すべきだが、ここでは措いておく。

プラトンの『パイドロス』などにおいて、美しい少年(別に女性でもいいし、プラトンではなくカントならば自然美が問題になるが)を観照して美を感じることは、さしあたり出発点は感性的で感覚的な経験だが、超感覚的なイデア界への誘いとしてあるものだとされている。もし、現代の我々がプラトンのいうようなイデアの実在を信じないのだとすれば、そういう誘惑は実は虚偽であり、欺瞞であって、それが指し示す「向こう側」など実はありはしないのだ、と思うのかもしれない。それは20世紀の論客、例えばラカンジジェクがよく話題にする擬餌、ルアーのようなもので、それに好奇心を惹起され、誘われるが、誘われるままに外に出て追い掛けてみても、そこには何もありはしない、という徒労の経験、無意味の経験である。

それはともかく、感覚的なものと精神的なものの媒介や蝶番ということが大事であり、恋愛や性について、それを古代的に考えようと近代的、現代的に考えようと、生理的な満足だけが問題だと思う人々はいないのである。女性の性欲はそれ自体複雑だが、ここでは男性の性欲だけを考えれば、一定以上の年齢の男性の多くは、一定期間以上禁欲が続けば生理的に苦しくなるから、射精したくなる、ということはあるであろう。しかしながら、喉の渇きや空腹感にも似たそういう動機だけが性の全てであることは通常はない。現代では、その由来が全く不明な「承認欲求」というタームが頻繁に用いられるが、とりあえず、そういう意味の次元が重要なのである。

他方、精神や意味だけがあればいいわけではないのは、余程の悟り澄ました聖人でなければ、精神的な愛さえあれば肉体の満足や快楽は不要だ、という人もほとんどいないことからも明らかであろう。もし、愛を性欲ではなく、尊敬や友情などに還元できてしまうならば、愛、性といった次元は消滅するのである。

さて、そういう愛とか性を、理屈や論理、倫理・道徳、法制度などによって規制したり分析することは困難だが、そのことは、例えば、結婚している人々の間でも、不倫とか浮気と呼ばれる恋愛や性が数多く見られることからもいえるであろう。また、何かの正しさとか真理その他によって、愛情をどうにかすることもできない。そこには一定の魅力とか魅惑などの説明が極めて難しい要因が介在しているであろう。

芸術作品については、以前も話題にしたが、それは商品の一つではあっても、商品に還元されることもできないということで、それを最も深く分析したのはベンヤミンだと思うが、彼のいうアウラと複製技術の微妙な関係はインターネット時代の今こそ熟考すべきであろう。話を音楽に限れば、芸術音楽と商業音楽という二分法も疑わしくなってきているし、それは恐らく音楽だけではない。そもそも商品について、マルクスの『資本論』によれば、それはただ単に生理的な満足や快楽を齎す有用物であるのではなく、神学的で意地悪な物だとされる。それはそもそも或る意味で抽象的な概念、意味の次元にもあるのである。それは外的な特性ではなく、そこに凝結していると想定される労働時間という価値が問題だという意味でそうなのだが、労働時間という要因を指摘したところで、商品の謎とかフェティシズムは少しもなくならない。芸術作品という次元を考慮したら、尚更話は難しくなる。

とりあえず、今のところはここまでにしておく。