organisationの諸相

私が社会学を学んだことがないということをお断りしておくが、個々人が社会的にどう組織化されているのかということを考えていこうと思う。

まず、誰にとっても家族があるというのは自明である。それから、学校、工場(20世紀の先進地域では企業)、軍隊(日本では自衛隊だし、徴兵制がない国々もある)なども重要だ。だが、ここでは、漠然と中間団体と呼ばれるようなものを取り上げたい。

それは、直接そこから対価や賃金を受け取るわけではないような、政党や労働組合などである。中間団体が全部なくなっているのかどうかまでは知らないが、労働組合の衰退が叫ばれてもう久しい。それは従来型の大企業の大きな組合が弱くなってきたとか、組織率が下がってきたということであり、そもそも正規雇用の労働者が減ってきたということである。非正規労働者労働組合は沢山ある。だが、大多数の非正規労働者を組織しているわけではない。かつての戦後社会において有力だったとされ、その後嫉妬や羨望、憎悪の的にされてきた「労働組合」が一体如何なるタイプの労働組合だったのか、ということもよく考えたほうがいい。

政党についていえば、特定の政党の党員になるような人々が増えているのか減っているのかという社会調査や社会統計を寡聞にして知らない。中間集団ということでいえば、議会政党ではなく新左翼の党派(セクト)のようなものもあるが、こちらもどんどん衰退し、絶滅危惧種と化しているようだ。

そうすると、家族はあり、学校もあり、企業もあるのだとしても、そしてそれから趣味のクラブのようなものはあるとしても、それ以外の人間関係の組織化は衰退したり減少、消滅していく傾向にあるのだろうか。これも統計を取って調べたわけではないから何ともいえないが、昔からピースボートのようなNGOはあり、20世紀の終わり頃からナマケモノ倶楽部のような環境NGOも有力だということは承知している。環境NGOとしてはA Seed Japanなども有名である。

さて、人々が大企業や公務員、教員などとして労働組合を余り構成しなくなったとか、政党にもひょっとしてそれほど入っていないという場合、NGOとかNPOになら参加しているのだろうか。そういう市民は、所謂市民派の市民、市民主義の市民、ちょっと社会運動とか活動に興味関心がある市民であろう。そうすると、そうではない個々人は何処にも所属せず、組織化されていないのだろうか。趣味の団体に参加したり、地域社会で隣人と繋がっている、ということはないのだろうか。また、リアルでの付き合いだけでなくインターネットでの交流はどうか。

町村信孝の『保守の論理』を読んだが、彼はそこで、自殺者3万人超えの現状を憂慮している。実際の自殺者が3万人超だとすれば、予備軍はその十倍いるともいわれているのだ。町村は、その原因はただ単に精神病ではなく、貧困や生活苦だけでもなく、個々人がばらばらに孤立して生きていることが大きな理由なのではないか、とみなす。いかにも保守主義者らしい発想だが、そういうふうに一度紐帯が切れ、ばらばらになってしまった諸個人を一体どのように再び社会に統合することができるのか、というのは、もう100年以上論じられ、模索や試行が続き、そして全く結論が出ていない問題なのである。