孤立した個人と「自由」な選択

選挙の問題と繋がらないと思われるかもしれないが、私が申し上げたかったのはこういうことである。

最初から特定の政党の党員になっていたり、熱心な支持者である人々はもう、何処の党に投票するかという選択は終わっている。しかしながら、そうではない人々はまだ決定していない。形式的には彼らは全く自由であり、その行動は予測不可能なはずである。

ところが、世の中には世論調査というものがある。人々が何処の政党を支持しているか、何処に投票するつもりなのか、という調査だが、そういう調査結果や統計で、多数の人々の行動はほぼ事前にあらかた判明してしまうのである。

勿論、個々人は自由であり、他人から束縛されてはいない。だが、社会総体としてみれば、個々人の自由とか恣意の余地は限りなくどうでもいい、無視可能なレヴェルになってしまうのである。無党派層とか浮動票そのものを批判する意見もあるが、問題は、それが実際にはそれほど「自由」ではないということ、結果的に現状追認になるしかないことである。

有権者の圧倒的大多数がまだ選択・決定をしておらず、彼(または彼女)がどうするのか全く事前に分からないというのは、統治者にとっても批判勢力にとっても、およそいかなる政党にとっても不安な状況である。だから、党員とか、党員まで行かなくてもサポーター、ファンを増やそうと努力しているのだ。我々はそういう組織化や団体の拘束を全く逃れることはできない、それを逃れて自由になろうとしても、大局的にみれば、或いは統計的にみれば、その自由は消されてしまう、ということを考えなければならないと思う。