フィヒテ、シェリング

私は別にひきこもっていてもいいと思うのだが、家にいても読書も音楽鑑賞もしたくなく、TVすら観たくないのは困ったものである。TVといえば『相棒』くらいしか興味がないが、再放送は既に何度も観たものだから、つまらない、ということである。世の中に存在する映像作品、娯楽は別に『相棒』だけではなく、私の自宅の目の前にはTSUTAYAがあるからDVDをレンタルしてもいいだろうが、残念なことだが、DVDを再生する機械がない、という現実である。

それはそうと、近代のナショナリズムを批判する文脈でよくフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』が言及される。この講演をよく調べたことはないのだが、私の意見はふたつである。

まず、ナショナリズムを批判するといっても、そのフィヒテの講演は、当時、ナポレオンの侵略に抗議、抵抗するという意味でいわれていたものである。外国の侵略に抵抗する、という意味でのナショナリズムも否定すべきなのだろうか。

もうひとつは、現代の論者の大多数が、『ドイツ国民に告ぐ』しか取り上げず、フィヒテの知識学、法哲学を問題にしないのが疑問だ、ということである。

マルクスは『資本論』で、僅か3行書いてフィヒテを揶揄している。それはこういう内容である。人間はフィヒテ流の哲学者として「我は我なり」と生まれてくるものではない。他人を鏡として、他人のなかに己の姿を映して自己を認識するものである、というようなことだ。

確かに、現実問題としてはそれはその通りである。だが、ただそれだけのことでは、フィヒテへの有意味な批判にはならない、と感じるのは私だけなのだろうか。

私はドイツ語がそれほど読めないのだが、フィヒテには幾つか邦訳がある。まず挙げるべきは、中央公論社の『世界の名著』であろう。そこには、『人間の知識』などが入っているが、それを読んでみて、なかなか論理的な思考だと私は感じた。

それから、岩波文庫に『浄福なる生への手引き』があり、『フィヒテ全集』が最近刊行され続けている。現在も刊行中だと思うが、その内容は、主に、知識学と法哲学に大別される。私も全部読んだわけではないが、非常に難しい印象である。恐らく、哲学の歴史のなかで、我々がイメージするような法哲学を創始したのが、カント、フィヒテではないだろうか。

フィヒテの難点は、「これ」、という決定的な著作がないことである。彼は自分のいう知識学を何度も何度も展開しようとしては、最終的に満足できない、というようなことで、そうすると、読者としても、膨大にある彼の文章のうちどれをまず読めばいいのか分からないのである。

同じようなことはシェリングにもいえる。シェリングも、『人間的自由の本質』だけではなく『シェリング著作集』が刊行されているが、まだ訳されても読まれてもいないものが大量にあるし、それに彼は、生涯において、余りにも何度も立場を変え過ぎである。フィヒテに近い立場から、自然哲学、同一哲学、神話の哲学、『世界年代』、後期の積極哲学など、余りにもあれこれやり過ぎており、読者としてもシェリングの全体像を把握できないのである。

私なりに読む限りでは、哲学のテキストで最も難解なのはフィヒテシェリングであり、ヘーゲル以上に難しいと思う。それだけの読みにくさを我慢して読んで、実りがあるのかどうかは、さっぱり分からない。