普遍性と特定性

人権概念は普遍的な価値だ、とヨーロッパ人は主張する。非西洋世界の人々は、それは近代ヨーロッパの考え方でしかない、と反駁する。どちらが正しいか判断する前に、かつての自然法という概念と比べてみてはどうだろうか。

実定法、実際の法律体系には確かにあれこれ書かれているであろう。そこには具体的な規定がある。では、実際に法律に書かれているかどうかに関わらず、普遍的且つ超越的にある、と想定される法があるのだろうか。もしあるとしたら、どういう状態の社会であろうと、それが普遍貫通的に妥当するはずである。

ジョン・ロックの『人間知性論』には、知識についてのはっきり相対主義的な意見が書かれている。つまり、非ヨーロッパ世界の人々はヨーロッパ人とは全く考え方が異なる、という事実を顧慮しているのである。ところがそのロックは、自然法という概念の支持者であったらしい。これは矛盾なのではないだろうか。

ロックが矛盾しているかどうかはともかく、自然法、そして自然法自然権の関係、そういうかつての理論の一体何処までが擬制(fiction)とみなされるべきか、というのは、少し難しい問題である。「擬制」ではなく「理念」(この表現にどういう意味を込めるのであろうと)と呼ぶべきなのだろうか。例えば、どんな社会でも、理由もなく無際限に他人を殺害することを許容する社会はない。我々が許されるのは、正当防衛などの場合だけである。同様に、非西洋世界の出来事であれ、女子割礼、女性の性器切除の慣習はどうみても良くないし、人権侵害、差別なのではないだろうか。

そういうときに、我々は、近代的で先進国的な規範、価値などを持ち込んでいるのだろうか。私は必ずしもそうは思わないが、普遍的な法、自然法とか人権概念が確かにあるのかどうかというよりも、人々が無益に苦しめられている現状は絶対に良くないのだ、とはいえると思う。