「逆行」を巡って

自然には法則があるといわれるし、歴史の場合、歴史の法則、歴史の必然などは疑わしいと思うが、とにかく人間が歴史に意味を見出す、或いは、見出そうとすることは事実である。最低限、歴史が単線的に進歩するものではない、ということは感じられることである。それは、1917年以来の社会主義の経験についてそうだし、それだけではなく、例えば、世界史の長い持続において徐々に女性の権利が確立されてきている、と想定してみるとすると、ときどき、タリバーンとかイラン革命のような一時的な逆行に出喰わす。

それについては、単にジェンダーセクシュアリティということに留まらない総体的な視点が必要である。女性や性的少数者の人権が制約されたり損なわれたりし、苛酷な弾圧が加えられるのは勿論良くない。だが、どうしてそういうことになったのか、検討すべきである。

私が以前、NHKだかのテレビ番組で観て非常に驚いたのは、タリバーンになる前のアフガニスタンが極めて近代化、西欧化された都市だったことである。それだけではなく、そこにおいては一定程度女性の権利も認められ、社会進出も果たしていた。ところが、タリバーン以降、どうなったのだろうか。

我々が自由主義(資本主義)体制に生きる「リベラル」派として素朴に考えれば、どうみてもかつてのアフガニスタンのほうが良かった、と思うのかもしれない。だが、果たしてそうなのだろうか。イランのイスラーム革命についても、暗黒面は確かにあるだろうが、では、以前の国王(シャー)の統治のほうが良かったのか。

近代化、西欧化され、一部の人権が認められ、一部の人々が富んでいる、という社会の場合、そこに差別、格差、不平等などがあるならば、やはり問題である。非西洋世界において顕著だが、「経済発展」がごく一部の人々の利益にしかならない場合があるのである。民衆の大多数は以前と同じ条件、または、もっと酷い条件に置かれる。そうすると、それが不満だから、イスラーム革命やタリバーン(神学生)でも支持してしまう、というふうになるのは必然である。

我々は現代日本に生きている。だから、それ以外の社会、つまり、第三世界とかほんの少し前の日本などのリアリティは、推測と想像によってしか分からないし、再構成できない。自分自身の体験はリアルでも、他人の生はそうではないのである。そういうふうに、経験への接近可能性に限界がある、ということを、よく承知しておくべきであろう。