曖昧な問題

女子割礼には大多数の人々が反対だと思うのだが、尊厳死、臓器移植などになると意見が分かれるであろう。治癒する見込みのない重病の人々が、個人の意志で延命治療を拒否するのは、自由、自己決定権の範囲ではないのか、と我々は考えるのかもしれない。私はそう思うが、ところが、問題は、「自己」決定権の範囲と、他人とか社会から暗黙に強制される範囲の境界が曖昧なことである。

障害者運動の人々が、ただ生きる権利を求めて、尊厳死に反対する、少なくとも懐疑的であるのは、尊厳死という美名によって、社会から無用とされる人々がどんどん死に追いやられる、しかも本人がそう望んでいるというエクスキューズをつけてそうされる、と懸念するからである。本当にそうなるのかどうかは、私には分からないのだが、少し検討してみると、こうである。

一つの考え方は、個人の自由とか自己決定権などの近代の考え方そのものを制限しよう、というものである。中国の古典『孝経』の言葉だが、「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」などである。これはこれでいいと思うが、例えば、性別変更、性転換などがしたいトランスジェンダーにも同じ理屈で反対される場合があり、そういうケースは支持できない。

近代以降、個人がどこまでも自由になり、自分自身の身体やさらには生そのものも思うままに処理できる、とみなすとする。それ自体が、一定の地域と時代に特定的な考え方である。近代人、というか、現代人以外は誰もそういうふうに「自由」に考えていなかったのだ。例えば、我々は、リストカット(手首自傷)、オーヴァードーズ(大量服薬)、自殺などをするのかもしれない。それは自分の自由だと考えている場合もあるだろう。ところが、かつてのヨーロッパも含めて、自殺は、宗教によって厳しく禁止・断罪されてきたのであった。我々現代人、但し、一部の先進的で恵まれた地域に生活している現代人が「自由」に考えることができるのは、宗教の支配から少しは逃れたからである。

宗教による信の強制から免れるのはいいことだと思うが、そうすると、手にした「自由」をどういうふうに活用していいか分からなくなる場合もあるのは事実である。自滅する自由もあるのだ、という結論にもなりかねない。それを危惧する人々はパターナリズムを持ち出すしかないが、それも良いとは思えない、というのが、自由のパラドックスである。

臓器移植についていえば、私の大学院時代の恩師である富永厚先生は臓器移植に反対していた。どうしてかといえば、脳の死が人間の死とイコールではない、と富永先生は考えたからである。人間の死は、脳だけではなく、その他の諸々の器官の死も考慮して、判断されるべきなのではないのか、というのが、富永先生の意見であった。そうすると、脳死になったから、では、臓器を全部他人に移植する、ということでいいのか、という発想になる。

富永先生の考え方は十分検討に値すると思うが、臓器提供を受けられたら生き延びることができる命もある、という事実をどう考えればいいのか、というのは、非常に難しい問題である。