地域通貨を考える

大多数の人々は地域通貨に幻想を抱いていないどころか、興味もなく、さらに知りさえもしないので、私がいうことは無意味なのかもしれないが、私が2000年以降考えてきたことを少し纏めてみたい。

まず、歴史を振り返るべきだが、日本の地域通貨ブームの火付け役は坂本龍一などが関わったNHKのドキュメンタリー『エンデの遺言』である。このTV番組の影響力がいかに凄まじかったのかということは、なんと、小難しい理論などに一切関心がない私の母親までも熱心に観て本気で検討してみたという事実にも基づいている。大多数の人々には、難解な経済学の理論書を読むことはできない。だが、坂本龍一のドキュメンタリーヴィデオだったら観ることができるのである。それは良いことだと思うが、しかしながら、同時に、罪作りなことである。それを自覚すべきだ。例えば私の母親は、2012年の現在もなお、リサイクルショップを開いてそこで地域通貨を流通させる、などと主張して私を困らせている。

それはともかく、重要なのは、坂本が数年後に『エンデの警鐘』を作ったことである。そこにおいては、世界中の地域通貨が深刻に行き詰まり、頓挫していく模様が映し出されているのだ。この問題は他人事ではないし、重要である。例えば、地域通貨Qだけではなく、レインボーリングはどうなっているのか。そして、そういう全国規模のLETSではない多数の地域通貨などはどうなっているのか。

私を含めたNAMの人々は、これまでの地域通貨には問題があっても、自分達が作ったQはうまくいくと楽観してしまったのだが、それはどうしてだろうか。それは、規約が煩瑣だったからだ。その規約は、西部忠さん、宮地剛さん、渡辺彰吾さん、そして私が書いたのである。私は、特にセキュリティに関わる部分を書いたが、残念なことだが、規約が煩瑣で小難しいことと、セキュリティ的にOKであることは全く違うということが、例の三人組、つまり、柄谷(息子)・後藤・福西によって「実践的」に証明されてしまったのである。それは、私にとっては非常に屈辱でありまた恥辱だったが、それでも、自分の非、過失、誤謬、落ち度などは率直に認め、修正しなければならない。私には別に彼ら三人に感謝などする気は一切ないが、現実によって自分の間違った考え方が否定されたならば、それを受け容れるべきなのである。

幾つか考えたほうがいいことがあるが、まず、西部さんはハイエクなども研究し、これまでの社会主義の計画経済が、余りにも人為的、人工的だから、行き詰まったのではないか、ということはよく考えていたのではないか、と思うが、それでも、彼が中心になったQは、とても人工的なものであった。というのは、その規約が非常に膨大、長大で、しかも難しく、普通にモノ・サーヴィスの取引がしたい大多数の人々にはまともに理解できるものではなかったからだ。勿論そういうことは、西部さんだけのせいではなく、彼に協力していた我々にも十分責任がある。

Qという地域通貨の規約が非常に長くて難しいものになってしまったのは、特に制度設計やセキュリティを深刻に考えたからなのだが、それでも、悪意がある連中がそこに存在した「穴」を突いてくることをどうすることもできなかった。我々はそういう2002年の現実、具体的な経験から出発する以外にない。

10年前、本当に呆れ返ったことが沢山あるが、地域通貨に関係することでその幾つかを紹介しようと思うが、例えば、松下さんという埴谷雄高アンドレ・ブルトンが好きな女性がいたが、彼女の主張は、自分は家事労働などに地域通貨を含めて対価は一切要らない、「愛」さえあればいい、というものであった。彼女はそういう意見を執拗に言い続けていたが、私が絶句したのは、もしそういうふうに発想するとしたら、そもそも、NAMも地域通貨も、一切何もかも不必要なはずだからである。全部「無償」でいいというならば。

彼女のいうことをまともに受け取る必要はないが、大事な問題は、ジェンダーセクシュアリティの問題を地域通貨が解決できないどころか、ほんの少しの改善、改良もできないことである。例えば、Qには厳しいペンネーム審査があるから、クィアトランスジェンダーが入ることはできないという問題以前に、ひびのまことよねざわいずみなどは、地域通貨に参加しても利益が何もないという理由で、完全に無関心だったのである。そして、残念なことなのだが、ひびの、よねざわなどは正しかったのではないだろうか。

NAMには、"gender/sexuality"という部門もあったから、私はそこでよく検討してみたが、地域通貨ジェンダーの問題をもし結び付けるとしたら、家事労働の一部を地域通貨で支払い受け取る、というような仕組みを考えるしかないが、それを想像してみて、また、我々が作った地域通貨において実行してみて、性役割、性的分業、そこにある深刻な差別や力関係を変えることなど全くできないことを真剣に受け止めるべきなのだ。

地域通貨が万能ではないどころか、現実に実現可能なことが限られているのは自明だが、そうはいっても、それが例えば性の問題にどう影響するのかということは考慮すべきであろう。

それからもう一つは、人々が地域通貨に期待する理由が、金融とか信用、融資などにあったという問題である。Qだけではなくそれ以外もそうだし、さらに、日本だけでなく世界中においてそうだが、地域通貨、人民通貨、民衆自身が自発的に創造する貨幣が素晴らしいと思った人々、現在もそう思っている人々は多いわけだが、検討したほうがいいのは、そういう人民が草の根で創る通貨・貨幣が、一国の中央銀行が発行しているドルや円とは根本的に違い、ミクロなものであるという事実である。それは最初から当たり前ではないかと反駁されそうだが、そのことから出てくるのは、そういう地域通貨で「融資」などをやるのが非常に難しい、現実にはほとんど不可能ではないのか、ということである。Qにも「ファイナンス規約」があったが、留保規約とかにされてしまい、そしてそのまま10年が経過してしまった。Q以外の地域通貨でも事情は同じではないだろうか。

少し考えてみればいいが、店などの事業体が地域通貨で融資を受けたとして、その店の経営は少しでも好転するのだろうか。そんなことはないであろう。もし事業とか経営にまで影響することができるとすれば、その地域通貨が拡大した場合だけである。それまでは、地域通貨で商品の対価の一部を受け取るのは、事業体、店としては事実上赤字だし、地域通貨などで融資を受けても無意味なのである。

一国に限らない国際的な決済手段のことも考慮すべきだろうが、とりあえず、ドルとか円などの国民通貨を考えてみれば、それには一応、法的に、強制的な流通権、流通根拠が与えられている。特別な事情がなければ、どんな人でも円を使って、どの商店ででも買い物をすることができる。ところが、地域通貨はそこが決定的に異なり、どこで流通するか、使えるかというのは「約束」に基づく、契約に基づくのである。ということは、事前に契約・約束していなければ、使えない、ということだし、さらに、地域通貨の会員だったら全部の商品に使えるかというとそうではなく、さらに、その商品の対価全額に使えるのかというと、そういうわけですらないのである。

余りこういう「現実的」な味気ないことは言いたくないが、そういうもろもろの条件をよく検討したほうがいい。水谷さんのように、もう地域通貨は古いから、「評価経済社会」に飛び付く人々も多いのだが、そこには「地域通貨」のような貨幣の残滓すらなく、全部「評価」、感情で交換、取引が成り立つと空想されているのだが、そういうものは地域通貨の戯画、カリカチュアだと見るべきだし、そうすると、元々の地域通貨が疑わしいことになる。私は別に地域通貨を否定したいわけではないが、資本制商品経済そのもの、そして貨幣そのもの、さらに、資本、金融、銀行、信用などについて具体的且つ理論的に吟味してみなければ、何をどうしようと、かつてと同じ誤謬を繰り返すだけであろう。