カオスについて

細かいことですが、ガタリが「カオス」についてどういうことを考えていたのかを"Chaosmose" p.114から窺えます。邦訳もありますが、持っていません。流麗な翻訳ですが、通常「主観性」とされる"subjectivite"が「主体感」となっています。

ガタリの考え方が、科学理論としてのカオス理論とどれだけ繋がるものなのかは私には判断できませんが、彼は生の欲動と死の欲動というフロイトの二元論に不満を持ち、"complexite"と"chaos"という対で置き換えたようです。"complexite"というのはよく分かりませんが、元々のフロイトのコンプレックス概念と関係があるのではないか、と推測しても的外れではないでしょう。"chaos"そしてそこから生まれる"chaosmose"から"L'intentionnalite objectale la plus originaire se decoupe sur fond de chaosmose."というのがガタリの考え方です。「最も原的な対象的(客観的)志向性がchaosmoseの底において浮き上がる(切り分けられる、切り抜かれる)」ということですね。そこから窺えるのは、ガタリが主観-客観の発生そのもの、志向性の発生そのものを問おうとしていたことです。それから、細かいことですが、"chaosmose"と"chaosmos"は異なるそうです。"chaosmose" = "chaos" + "osmose"(浸透、相互浸透)、"chaosmos" = "chaos" + "cosmos"(宇宙)です。しかしながら、区別があるといっても、具体的にはっきりこうだといえるというわけでもありません。

"Et le chaos n'est pas une pure indifferention; il possede une trame ontologique specifique." - ドゥルーズから影響された哲学的な考え方ですが、ガタリの意見では、カオスは純然たる無差異、未分化ではないそうです。彼がいうには、カオスは「存在論的に特定的な横糸(une trame)」を持っているそうですが、メルロ=ポンティの遺著『見えるものと見えないもの』の存在論と比べてみると面白いかもしれませんね。

そういうことが芸術(ジャズなど)と関係があるのかどうかは知りませんが、哲学・科学・芸術はカオスに「抗して」可能になるのだというのが『哲学とは何か』におけるドゥルーズ=ガタリの意見です。混沌をただ混沌のまま放置しても、認識も創造も生まれないからです。恐らく美術でもそうでしょうが、音楽では、フリー・ジャズやフリー・インプロヴァイゼーション、それから現代音楽などの、最もノイズに近い音源を想定してみて、それが何処から何処までが音楽なのだろうか、と考えてみたら面白いかもしれませんね。コードを抛棄する、解体するといっても、一定の何らかの秩序、組織原理が必要なはずですよね。例えば、昨晩私はコルトレーンの『アセンション』を聴きましたが、これはどうなのでしょう。それから、ジャズや自由即興ではいつもこれを考えるのですが、ジョン・ゾーンデレク・ベイリーなどと共演した『ヤンキース』はどうですかね。私には『ヤンキース』は、ギター、サックスなどの楽器から発せられるノイズの集積に聴こえますが、何らかの音楽といえるのかもしれませんね。現代音楽でいえば、ジョン・ケージの或る時期からの作品は、例えばラジオや街の音、さらには自然音(川が流れる音)などの合成、リミックスです。そのような音源の芸術性、作品性はどうやって問い、劃定できるのでしょうかね。或いは、以上と比べることはできませんが、若き日のオノ・ヨーコは、ビルの屋上からグランドピアノを落とし、その音響をパフォーマンス作品として提示したそうです。グランドピアノが地表に叩きつけられる瞬間はきっとすごい音がしただろうとは想像しますが、そういう行為、パフォーマンスそのものと、芸術、音楽との関係はどうでしょうか。

などとちょっと考えてみました。