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今日も体調が頗る悪いが、ともかくシャワーを浴びてすっきりする。何処かしら躰の奥のほう、内臓が傷付いているかのような感じだ。そういう主観的な感じなどは全くあてにはならないが。それはともかく、コルトレーンの『サン・シップ』を聴いているが(なかなかいい)、YouTubeを撮ろう。
『サン・シップ』は、何処となく、坂田明の『ダンス』を連想させる。特に出だしがいい。コルトレーンのテナーサックスの伸びやかで解放的な実に素晴らしい音、音色。
ガタリについていいたいことなら膨大に、そう、20万字以上あるが。
自分が前世紀の末に書いた論文を全面的に書き改める、書き直すということも計画しているが、そうすると、かつての自分の論旨を全部批判的に取り消し、考え直すということになるはずである。例えば、《超越論的(先験的)経験論》などそもそも成り立つのか、というところから考える。《超越論的(先験的)》といえば《観念論》になるのが普通であり、カント、フッサールが存在している。ところが、ドゥルーズはそれとは異なるわけである。
細かい話だが、観念論(idealisme)の反対は実在論(realisme)、経験論(empirisme)の反対は合理論(rationalisme)、唯物論 (materialisme)の反対は唯心論(spiritualisme)である。観念論に経験論を置き換えるとは、では?
パソコン、特にインターネットブラウザの調子が悪く、膨大な時間が掛かる。仕方がないから、メモ帳のテキストファイルで書いている。後にFacebook, Twitter, はてなダイアリーなどに貼り付けるつもりだ。それはそうと、Great Blues Performances from John Lee Hooker, Jimmy Reed, Bo Diddley and other blues legends "Born with the Blues". "Stomp Boogie" (Hooker) John Lee Hooker, "I Wish You Would" (Arnold) Billy Boy Arnold with Tony McPhee, "Road Runner (Live)" (McDaniel) Bo Diddley, "Hard Walking Hanna" (Re...ed) Jimmy Reed, "When My First Wife Quit Me" (Hollins) Jimmy Johnson, "Lonesome" (Chatman) Memphis Slim, "Born With The Blues" (Benton) Buster Benton and Carey Bell, "Alabama Train" (Minter) Louisiana Red, "I Had It So Hard" (Luandrew) Sunnyland Slim, "Don't Stay Out All Night" (Arnold) Billy Boy Arnold with Tonny McPhee, "Let The Good Times Roll Cregole" (Chatman), "House Rent Boogie" (Hooker) John Lee Hooker, "Cry Before I Go" (Smith-Jackson) Jimmy Reed, "Don't Know Where I've Been" (McDaniel) Bo Diddley.
1999-2000年の私のドゥルーズ『差異と反復』第2章の読解は、appel, appeler, rappel, rappelerなどのフランス語にあれこれ妙に深遠な意味を読み込んでみるとかいうものだったが、そういう読み方に正当性などまるでない、ということはいうまでもない。私は卒業論文で生命、修士論文で記憶を扱い、博士課程に進学したら博士論文で死の問題を書くつもりだったが、幸か不幸か博士過程には進学できなかったから、自分の計画を抛棄した。
それはそうと、2000年の段階でどうだったかはともかく、2012年の現在の私なら、生命、記憶、死をそんなに深遠に、形而上学的に扱うべきではない、と考えるところだ。もっと経験的に考えるべきだし、もっといえば経験科学的に考えるべきである。例えば、生命、生物、有機体の習慣とか生命過程、自然過程などなどに過剰な意味(ドゥルーズのいう《縮約》など)を読み込むべき...ではない。記憶にしてもそうだ。上述の私の読み方は、主体(人間)とは別箇に記憶そのものが自存する、という極端にプラトン主義寄りの考え方だが、そんなものがただの妄想に過ぎないというのは当たり前である。
経験的にいえば、自分自身の過去について、或る出来事は覚えているが、それ以外は忘れているのが常識である。そして、その記憶、想い出の内容も、客観的な事実に照らして正確、忠実な場合もあればそうではない場合もある。そういう確かな事実から出発すべきなのだが、ベルクソン、ベルクソンを解釈するドゥルーズ、ドゥルーズを解釈する1999年の私はそうではなかった。
持続、記憶、生命などというベルクソンの考え方は、事実問題としてはともかく権利問題としては、私(自己、自我、主観、心など)の生のありとあらゆる瞬間が、全部ありのままで保存されており、しかもそれは主体(人間)とは別箇に自存しているというようなことである。勿論、日常の経験が告げる事実はそうではない。私が自分自身の記憶を辿ると、どうしても思い出すことができないところに到達すると分かる。昔々の出来事についてそうであるというだけではない。最近の出来事でも、その具体的な細部、詳細まで記憶できているわけではない。そういうふうに、ベルクソンの主張と我々の平凡な日常は違うから、その相違はおかしな論理や思弁によって埋められなければならない。
細かい話をすれば、ベルクソンとフロイトは異なる。ベルクソンは、フロイトによって自分の説が実証されたという意味のことを何処かでいっている。しかしながら、そうではない。ベルクソンとフロイトが決定的に異なるのは、フロイトが、「過去は、そのものとしては、もう無い」(『夢判断』)と看做す点である。確かに、彼の精神分析は、患者に過去を想起させる。だが、思い出された内容が過去の事実そのままであるという保証は何処にもない。想起され語られるのは、常に、現在、現時点から再構成された記憶であり、いろいろな欲望、思惑によって歪曲、偽装されている。
そのことにフロイトが気付いたのは、自らの誘惑仮説の検証においてであった。精神分析において、過去の虐待などを語る患者が多いが、その患者の過去の環境や生育歴をよくよく調べたら、どうも患者の話が客観的な事実関係と食い違っているのではないか、とフロイトは考えた。だから誘惑仮説を抛棄し、誘惑というのは主体の幻想なのではないか、という見方をするようになったが、そのことがフェミニストから後退であると非難されたりする。しかし、的外れである。性的暴行、虐待、トラウマなどといっても、現実の出来事であった場合もあれば、そうではない場合もあり、さらに、検証も反証も全くできない、確かめることができない場合も多いからである。
John Coltrane "Reflections"
疲労と云ふ契機、体調不良。財産がどんどん残り少なくなつてゆく。放置。腰も大變に、痛い。放置。YouTubeを撮影する氣にもなれないし、慶野さん(映画監督)から云はれた主題のvideoも撮影してみる氣持ちになれない。放置。他人に連絡も取れない。放置。何もかも、放置。そして絶縁。
非常に投げ遣りである。修士論文も出して來て再讀したが、僅か三頁で續きを讀むのが厭になった。厭きっぽい。放恣な性格である。何事も長續きしない。米澤泉美さんの云ふ通りだが、彼女からさふ云はれて、癇癪を起こして彼女と絶交してしまつたのであつた。しようも無い。
一箇月以上しくしくと痛み續けてゐるのは、肛門から躰の奥の方へ直腸を這入つて、少し行つた処である。彼氏と性交した際、傷になつたのかも知れない。彼氏に、何だかもう駄目で死にそうな感じだ、と云つたら、彼としては、ちよつとぞつとしたやうであつた。それはさうかも知れない。
不断に躰の内側から鈍い痛みが、信號のやうに傳へられて來、朝はまだ眠いのに五時に目覚めてしまふ。そして、昼寢も出來ない。ぼんやりとした頭で、漠然と苦しいと思ひながら、深夜一時、二時迄ずつと起きてゐなければならぬ。それにはうんざりする。何も爲る事も無いのに。休めない。
【いいね!】 Don't trust under 30. RT @BobDylanBotJP: 60年代には『30代以上の連中を信じるな』と言われたけど、今なら『30代以下の人間を信じるな』と言いたい。
John Coltrane "Reflections"に入つてゐる"Impressions" (15:30)は非常に良い演奏だが、CDにパーソネル、演奏日時などのデータが一切記されてゐない。何故だらう。
それでも神を信じない人間は憐れだというのがパスカルの意見だが、私は神を信じない。
100min_Meicho
2012.06.04 10:33
今週からは鹿島茂先生の解説による『パンセ』が放送ですよ。仏語で「思索」という名の本書。パスカルは物理学者でしたが、その思索は幾何学が通用しない精神の論証へと徐々に向かいます。理性賛美の風潮が強まった17世紀「それでも神を信じない人間は憐れだ」と言ったのがパスカルなのです('A`)
彼女のTwitter IDは"pas_pascal"だが、さうすると、彼女はパスカルの事が好きなのであらうか。だうもさうであるらしい。彼女のTwitterのprofileを覗くと、人間はか弱い葦である、しかし、考える葦である、と云ふパスカルの言葉が、仏語で引用されてゐる。
"L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature; mais c'est un roseau pensant." https://twitter.com/#!/pas_pascal
MontaigneBot
2012.06.04 17:38
「私はこの目で次のことを見た。すなわち、乱世には人々は自己の運命の転変に驚いて、あらゆる種類の迷信に飛びつくように、不幸の原因と不吉な前兆を天にたずねようとするのである。」(モンテーニュ)
我々自身の悖徳、倦怠、そして死。
"Chim Chim Cheree", it is very nice play by John Coltrane. He liked this tune.
John Coltrane was very great tenor saxophone player. He created "free jazz".
John Coltrane "Absolutely Out There". CD one, "Naima". GOOD!
全部、妄想デスカラ、大丈夫デスヨ。 RT @watarihoukou: femmelets 裏政府…。大阪か京都のほうに出来るんですかねw
さうは云つても、原発立地県の人々も、生活があるからね。 RT @kou_1970: かつて、日本酒好きの私は一人で勝手に「原発立地県産日本酒拒否運動」をしていた。むろん半分ジョークだったが。しかし、これはじわじわと効くかも…→@taknom 福井県の産品は忌避します。こんな忌まわ
河上徹太郎と云ふひとは、沢山の藝術家と知り合ひだが、彼自身の業績は、全く何一つ無い氣がする。
"My Favorite Things" (Rogers and Hammerstein), 1962 (19:02) - it's nice!
パスカルにせよ、Twitterのbotで流れて來るモンテーニュにせよ、昔の人は偉かつたと思ひますね。二十世紀の人で感銘を受けるのは、やはり基督者であつたシモーヌ・ヴェイユです。 RT @pas_pascal IDのpascalは犬の名前です。
パスカルにとつて、モンテーニユは不敬虔であつた。彼の『瞑想録(パンセ)』がどれほどモンテーニユの『随想録(エセー)』から示唆され影響されてゐたのだとしても、譲れない何かがあつたのである。
私の計畫は、差し當たり、リカードとダーウィンの全集を讀むと云ふ事である。
リカードの素朴な労働価値説(投下労働価値説と云つたであらうか)はマルクスに否定され乗り越えられたと云はれるが、リカード及び彼のライヴァルであつたマルサスの問題は二十世紀以降も持續してゐる。ケインズはマルサスの支持者であつた。そしてスラッファがリカード全集を編んだはずである。
マルサスは『人口論』しか知られてをらず、揚げ足を取られて、政治的反動だと云はれてゐるが、彼は、『経済学原理』の著者でもあつた。私は数年前、それを讀んだが、余り理解出來なかつた覚へがある。
十九世紀に廣く讀まれたが、その後忘れられてしまつたものとしては、他に、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』など。ミルはマルクスから折衷的だと酷評され、それきりになつてしまつたが、彼等が生きてゐた當時において、ミルは超有名人、名士であり、マルクスは無名であつた。
ミルの教科書は十九世紀の標準(スタンダード)だつたが、経済学のみならず、論理学、歸納法の正當化、(社會)科學方法論などいずれにおいても、ミルは過去の人となり忘れられてゐる。例へば論理学なら、今日の人々はフレーゲを讀むであらう。ミルで今猶讀まれているのは自傳と『自由論』だけである。
John Coltrane plays "Miles' Mode" and "Mr. P.C." "P.C." = Paul Chambers.
十九世紀研究會と云ふ物を創らうと考へた事がある。フーコーは十九世紀と完全に切れてゐるから十九世紀を思考する事が出來ると云ふのがドゥルーズの意見だつたが、我々自身は、未だ十分十九世紀から切れてゐないと感じたからである。
十九世紀は遠い昔ではなく、ほんのちよつと前であるだけだが、それでも當時の文献には、既に現代の我々にはそれ程よく理解出來ないものが混じつてゐる。エピステーメーなどと云はずとも、何か前提が異なる事がはつきり感じられる筈である。マルクスなどの現代性は例外である。
CD two. "Afro Blue", "I want to talk about you", "Mr. P.C.", "My facorite things", "Traneing in".
ミルの代議制を論じた本は讀まれてゐると云ふ澤里さんの御指摘だつたが、彼が政治に就て書いたもの、例へば漸進的・改良的な社会主義論、女性参政権擁護論などは参照される機會がある。
Al Haigは、意外な事に、John Coltraneの音樂の支持者でありfanであつて、Coltraneの曲を何曲か録音してゐる。Haigの美學からすれば、一曲をそれ程長々と展開すると云ふのは、好みではなかつたであらうが。
I agree with you! RT @John_lennonbot: 僕はBeatlesを信じない。
ちなみに、Bud Powellは、ParisからNew Yorkに戻つて來てから、"Coltrane Change"に挑戦してみたが、うまくいかなかつたと云はれてゐる。
例へばニーチェの批判が徹底してゐるから、當時の人々が皆彼のやうに考へたのかと云へば、そんな事は無いのであつて、ウィリアム・ジェイムズなどにとつては『信ずる権利』こそが大問題である。信仰を維持したほうが實用的(プラグマティック)にも良いのだと云ひたいわけである。
フロイトは基本的に二十世紀だが、マルクス、ニーチェについては、十九世紀のヨーロッパ思想において例外的に尖鋭的であり矯激であつたと感じる。だからこそ現在讀んでも違和感がそれ程無いが、十九世紀の文献一般に、どれ程大量の宗教や道徳があるかと云ふ事には心底驚く。時代はヴィクトリア朝である。
暇潰しですよ。 RT @ShiraishiM1970: 攝津くんがなぜか旧字&歴史的仮名遣いを始めたのだが、19世紀に回帰したのだろうか?
暇潰しとしては、歴史的仮名遣いで書く他、ラテン語で書くとかがあるだろう。残念ながらネットで鏡文字を再現することは、どうしてもできない。
蚊に喰われた。もうそんな季節か。夏。
私も読んでみてそれほどよくわからなかったが(経済学の専門家でもないし)、マルサスの意見というのはどうなのだろうか。一般的には古典派経済学はリカードで頂点に達し、以降は通俗化と折衷であったと思われている。それがマルクスの意見でもある。が、マルサスはどうなのか。
ケインズがマルサスを評価した理由は私にはよく分からないが、ケインズの意見は、古典派とも新古典派とも(そしてマル経とも)違っている。ケインズ主義が体系化したり学派を形成できるものなのか分からないが、20世紀において非常に有力だったのは確かだ。新自由主義台頭までは。