good morning, miya-san!

>(1)蓮實さんは旧字で表記していない手紙は読まずに捨てるそうですね。

すごいこだわりですね。私なら、「攝津」でも「摂津」でも気にしないし、どちらでもいいですが。蓮實さんは、どういうわけか違うのでしょう。

>(2)「ジャズにおけるポスト・モダンって、なんですかね」ジャズの場合、気をつけなければならないのは「モダンジャズ」という音楽用語があり、摂津さんのいうようにそれが一つの括りになっていることですね。通常ジャズにおいて「プレモダン」とか「ポスト・モダンジャズ」という場合、それは「近代=モダン」という意味はほとんどなく、あくまで「モダンジャズ」の以前・以後を指しているようです。「モダン」という言葉のために、両者が混同されがちなんですね。

菊地成孔さんなどが、自分の音楽はポスト・モダンだといったり、ビバップ以前をプレモダンと形容したりしますが、ちょっと誤解を招きがちのように思います。

私からみれば、基本的にジャズは20世紀の音楽です。19世紀の終わり頃からあったのだとしても、録音がありませんから、具体的にどういう音だったのか不明です。そして90年代以降根本的な変容が生じたというのがcom-postの皆さんのご意見ですよね?

私自身は、あるかもしれないポスト・モダン・ジャズにはそれほど興味はありませんが、ルイ・アームストロングアール・ハインズ(やそれ以前)には興味があります。ハインズなどを聴いて感じるのは、彼のスタイルが非常に洗練、完成されたものだということであり、彼もまた近代人なのだという感覚です。

>(3)摂津さんへのお手紙は3通あります。残りの2通の方がメインですので、そのあと本格的な議論を開始したいと思っております。テーマは「ジャズの美学の成立の困難」という摂津さんのご提言をめぐって展開しています。私の立場ははっきりしていて「ジャズの美学の成立の可能性」を追求することを目的としています。これは提言ですが、com-postはあくまでジャズファンのための掲示板ですので、ジャズの美学〜音楽の美学から出来るだけ脱線しないように相互にいたしましょう。少なくともスタート時はそうありたいと思っております。

ええ、結構ですよ。私の問題意識は、資料体(フーコーの邦訳では、集蔵体となっていましたかね、アーカイヴです)を唯物的に確保できるのか、ということでしたが。視聴覚的なアーカイヴが確保できるならば、それに言及したり縦横無尽に活用したりして、あれこれの論者が批評や美学を展開したり、歴史を書けるでしょう。他方、何らかの客観性が確保できないなら、どうしても印象批評に終始するよりほかないでしょうね。

>(4)最後に、「ポスト・モダン、フランス現代思想はいい氣なものですよ」というご意見について。ソーカルとブリクモンによる「知の欺瞞」を想起しました。「カオス」ってなんですか?という言葉を目にした時からそう思っていました。いかがでしょうか?

私はドゥルーズ=ガタリしか知りませんが、彼らの『哲学とは何か』、『分裂分析的地図作成法』ではカオス概念が積極的に提起されていますね。逆にいうと、ドゥルーズ=ガタリ以外の現代思想でカオス概念をそれほど使っている人を知りません。丸山は使っていましたか?

それはそうと、ドゥルーズ=ガタリについては、細かい資料については今2Fなので文献がありませんから省略しますが、彼らの議論における「カオス」は、勿論科学としてのカオス理論も参照してはいますが、哲学がいう根源的な存在とか、アルケー(始元)とか、要するにそこから何だかの生成や発生が起こるものと想定されているようですね。彼らのテキストを読む限り、科学としてのカオス理論というよりも、彼らなりのコスモロジーの一環とみるべきだと思います。

ガタリの単独著作とドゥルーズ=ガタリの共著には、『アンチ・オイディプス草稿』→『アンチ・オイディプス』、『機械状無意識』→『千のプラトー』、『分裂分析的地図作成法』→『哲学とは何か』という対応関係があります。『分裂分析的地図作成法』はガタリ記号論の集大成ですが、問題的な本です。ガタリのものでは『三つのエコロジー』、『カオスモーズ』がいいと思います。彼も音楽を論じていますが、ジャズのことではありません。