メモ

John Coltrane "Stardust". 余り知られていないが、良い演奏。50年代コルトレーンが大好きだ。他には、Tadd Dameronとの"Mating Call"など。経済思想の素人である自分の限界を反省する。例えばマルクスアリストテレスに言及している。

ふたつのものが交換されるならば両者に共通の何かがあるはずだ、ということはアリストテレスには推論できたが、それが人間労働であるというところまでは分からなかった、とマルクスはいう。当時のギリシャ社会は奴隷制に基礎を置いていたし、資本主義が展開されていなかったからだそうだが。

交換があるなら、それを可能にする何かがある、と考えるのは合理的である。交換、交易が全く行き当たりばったりに、恣意的、偶然的、盲目的にだけなされるとは思えない。人々が《意識せずにそう行う》のだとしても、一定の合理性がなければ、長続きしないはずだが。

John Coltrane "Lush Life".

マルクスが《人間労働》に言及するだけで、脱神秘化ができると思っているらしいということについては、どう判断したらいいのか分からないが。ソシュールやその後の言語学者言語哲学者にプラトンの『クラテュロス』の言語観が素朴にみえたようにマルクスにはアリストテレスが素朴で前科学的にみえた。

マルクスにとっての《労働》は、カントにとっての《物》のようなものだったのかもしれない、と思うが。マルクスの課題は認識一般ではなく、経済、それも近代の資本制経済の解明であった。だからそういう彼が、《労働》に注目するのは、当たり前だったのかもしれない。

《労働》以外にマルクスが想定する前提は、自然、物質代謝、身体などの制約。或いは、商品は物ではないから、自分で歩いて市場に行くとか、自分で自分を販売するといったことはできない。必ず、人間がそうする。貨幣も同様であり、それだけで勝手に運動するということはない。

それだけなら当たり前だが、問題は、そうではない外観が生じることである。例えば、資本が利子生み資本の形態を取るとすると、労働や産業などを媒介せず、直接にそれ自身が魔法のように増殖するようにみえてしまう。それは宗教ではないが、資本主義社会に生じる魔術であり神秘である。

それから、『資本論』でマルクスは、商品や貨幣の《恋》について二度ほど語っているが、商品、貨幣は生きた人間ではないとしても、何らかの欲求や衝動を備えた存在のようにみえてしまう瞬間があるということであろう。それは勿論、マルクスの巧みな文学的修辞であり、比喩である。

さて、商品の市場価格とは別にその価値を想定できるのかどうかそもそも不明だが、それを別にしても、労働という視点から説明できない場合がある。ダイアモンドが有名だが、そのほかに、芸術作品もそうだ。近現代においては芸術作品もその多くが複製されて市場で売られているのだとしても、そうである。

Tadashi Settsu plays "Tenderly".

Tadashi Settsu plays "Blues Noir".

Tadashi Settsu plays "Historia de un amor".

津軽三味線の演奏→http://www.ustream.tv/recorded/22917106