轢死に名を残す

《つまり、この子を「気がおかしい」と思った人はみんな死ななくてすむんです。ところがこの子を、何かできそうだ、と思った人は死ななくちゃならない。》《難しいクライエントの周囲ではね、そりゃ次から次へと感心するほど巻き込まれた人が死んだり、交通事故にあったりします。で、だったらこの子を突き飛ばしてたら命が助かるわけで、だからみんなこの子を「気がおかしい」と言うのも当たり前の話で、それは本能的な防衛機制なんですね。だからみんな助かっている。》──『生きたことば、動くこころ:河合隼雄語録』(岩波書店)、p.104。

さて、この私も、京都の矢崎さんを含め、一体どれくらいの人々に死をプレゼントしてきたのであろうか。それはそうと、十年前、2002年のことだが、田口くんがメーリングリストに《歴史に名を残す》ことについて書いたから、私はといえば、皮肉に、《轢死に名を残す》と返信したのであった。そういうことは、些細な暗示の力で他人を感情的に動かし、ちょっとした地獄を世俗的な地上に創り出すためのテクニックである。私の心理操作の罠に嵌った人々もいれば、無事助かった人々もいた、倉数さんのように。

基本的には、曖昧な、複数の読み方ができる暗号を呟き、もしメッセージが解読されたら致死性であるような、そういう罠を仕掛ける。そうすると、言葉、意味の力で、人々は苦しみ、滅ぼされてしまうのだ。

生きたことば、動くこころ――河合隼雄語録

生きたことば、動くこころ――河合隼雄語録

ニーチェのように《私の真理は恐ろしい》などとはいわないが、不吉であることだけは間違いないだろう。それに《真理》が問題なのでもなく、ただ単に解読される意味、メッセージだけが問題である。それを理解して、真に受けてしまえば大変なことになってしまう情報とは、どういうものであろうか。

他人を地獄に堕とす私の詐術が効果を生むには、その人がほんの少し心が動かされるというくらいで十分である。そうすると、そこを手掛かりに、ありとあらゆる手段が可能になる。彼らは惑わされ、酷い目に遭い、そして死んでしまう。

さて、形而上学的、神学的な瑣末な細部の穿鑿など、実は全くどうでもいいことであろう。或る一定の言葉が特定の状況で或る他人に効果を生む、ということだけで、もう十分なはずである。例えば、論理の力だけで信仰を抛棄させられない人々も、彼らの感情を極限まで散々玩弄してみるとしたら、どうか。

無神論的にいえば、神や天使が存在しないという以上に悪魔は存在しないし、天国が存在しないという以上に地獄は存在しないが、物理的暴力に訴えなくても、この地上に地獄を創ることは非常に容易である。

例えば、シュレーバー控訴院長は《人間玩弄》といったが。彼がいいたかったのは、悪意ある神が人間である自分を玩弄して苦しめている、とかいうことだったが、人間と人間との関係においても、《人間玩弄》は存在している。

だから昔、私が《轢死に名を残す》と書き送ったとき、倉数さんは、ちょっとした言葉遊びのなかにとんでもない悪意が込められているということを、即座に洞察したのである。少なくとも彼は素朴ではなかった。彼の周りにいたのは、ボーダーばかりであったから、他者の操作について知っていたのだ。

《物》、物質、物体だけがあるという唯物論が困難なのは、どういう方策を取ろうと、意味という次元を消去することができないからである。

廣松渉が、左翼、マルクス主義者、唯物論者だったのにも関わらず、あれだけ煩瑣で膨大な認識論の迷路に閉じ込められてしまったのは、意味の謎、魔術にとり憑かれてしまったからであった。そうすると、そこからの出口などは絶対にありはしない。死ぬまでそのままである。

マルクスの批判、科学が脱神秘化、欺瞞の解消を目指すとしても、資本主義という近代の現実の只中に或る神学のようなものが回帰してくるのをどうすることもできない。マルクスをカントに比べるなら、『アンチ・オイディプス』がそうするように、超越論的仮象の相において、そうすべきである。

どれほど合理的、唯物的に考えようとしても、資本は自律的に運動するようにみえてしまう。また、それだけではなく、話す主体の具体的で個々の発話(パロール)なしには言語(ラング)もないと頭では分かっていても、具体的な人間を超えて言語そのものが実在し、人々を支配しているように思ってしまう。

フランス現代思想の一部の人々がテキスト論的神秘主義と揶揄されたが、神秘があるのは何も脱構築的なテキストのなかだけではなく、資本、金融など具体的で世俗的な経済活動の真っただ中に神秘は存在している。そういう意味で、ただの宗教批判には何の意味もない。近代人である我々ですら不可解で不合理なシステムに生きているからだ。守銭奴のように不合理な熱情を抱かず、経済合理的に生きようとしてさえもそうだ。なぜならば、我々が社会に適応しようとすれば、その社会なるものは深く資本主義的なのだから、資本主義が提供する外観をそのまま受け入れるしかないからだ。

商品の価値の主要な源泉に《人間労働》を求めたり、歴史についての一定の考え方を持ったからといって、神秘的な外観が消え去るわけではない。確かに資本制経済、産業資本主義は歴史的に特定的な産物であり、近代に固有なものだが、そう考えても、そのリアリティが少しでもなくなるわけではない。

本質主義構成主義の論争にも同じことを思うが。構成主義者は、我々のあり方が社会的、歴史的に構成されたものなのだとしたら、それを構成し直し組み替え直す主体的な契機があるはずだと錯覚し虚しい希望を持つが、人間の一定のあり方が、単に考え方を変えるだけでなくなるはずがないであろう。

Art Blakey and The Jazz Messengers "A Night In Tunisia", 非常に素晴らしい。特に表題曲。Lee Morgan, Wayne Shorter, Bobby Timmonsの魅力が炸裂する。いい演奏だ。

さて、15:00に家を出て豊田まで向かわなければならない。カウンセリングのためだ。だが、彼に話すことなどない。私の絵、無意味で非常に膨大な──全く形態をなしていない──イラストの他には、とりたてて話題などないのだ。今朝偶然読んだ河合隼雄の話でもしてみようか。

河合隼雄についていえば、或る患者の周囲の人々が全員死んでしまうなら、カウンセラーだけ無事でいられるはずがないが。もしそういう事態になるのなら、何らかの現実的な根拠(呪いとか魔術とは別の)があるはずなのだが。

周囲の人々の死因が自殺ではなく、事故死、病死であっても、当該患者と何らかの有意味な関連があるとしたら、どういうことが考えられるのだろうか。偶然などないというフロイト(『日常生活の精神病理学』)を考慮すれば、交通事故、癌その他についても、人々が実は意図的に死を招き寄せたのだというべきなのであろうか。

河合隼雄がカウンセラーだけは絶対に死なないと断言する理由は、カウンセラーは幾重にも保護されているからだ。例えば、空間的にも時間的にも一定の枠組みのなかにおり、当該患者と生活の全てにおいて付き合うわけではない。だから、影響も限定的である。

《そこで、この子、何かできそうだと思っているけど死なないのはセラピストです。なんでかといったらね、部屋から外に出ないからです。だから、僕ら絶対に守られていないとダメです。難しいクライエントの場合は原則を破らないとしょうがないと言ったけど、今セラピストがやっている以上にやったら、やっぱり僕ら死ななきゃならない。よくクライエントに言うけど、みんなあなたの周りの人死んだりしたけど、僕は死なないよって。本当にそうです。》(p.104)

さて、現代世界にそんな呪術的現実、災厄などあるのか、と思うが。或る子供、患者のせいで周囲の人々が次々に死ぬというのはおかしいし、セラピストは例外だというのも、それほどよくは分からない。恐らく経験的にいえば、そういう事態もあるのだろう。

恐らく意味、心的生活の次元では、呪術が必要なのだろうが。『解離の構造』という最近の本を読んで驚くのは、その理論的根拠が折口信夫であり、多数の人格、特に《犠牲者人格》を《供養》するとかいう発想だということである。

三島由紀夫の意見(Twitterbotから)→《私も小説家としてより、人斬りとして有名になりたいものだと思つてゐる。》

だが断る。RT @: RT @philo_imouto: お兄ちゃん、古代ギリシア人は奴隷が居たから働かないでずっと思索をしていられたのであって、お兄ちゃんは奴隷なんて持っていないし、資産もないんだから働いたら?