思考する。

少し他人の意見を読んだが、生命や「今ここ」を肯定するとか祝福するとかいうことは、私には全く関係がないと思った。ただ単にそれだけだ。

それは田口さんの意見を読んで違和感を感じたということだが、私には肯定するなどということは完全に無縁である。私は不毛なのである。

《今ここの肯定》を絶対的に拒絶する私はニヒリストだろうが、それでいいのだ。

不愉快な意見は読まなければいいが、ついうっかり読んでしまう。他人は関係ないのに。

《今後生まれてくる子供達には放射能のせいで障害があるかもしれないが、その生命を祝福する》とかいう考えは理解できないしする気も全くない。人々は勝手にすればいいだろう。私は関係ない。

先天的障害があるかもしれないのはただそれだけのことであり、祝福する、肯定するなどということではない。

昔からそうだが、私は田口さんのように考えたことはただの一度もなかったし、それでいいのだと思う。私は人々を愛する気が少しもないだけだ。

私にとっては他人との関わり方は《否定する》ということ以外存在していない。

田口さん、西脇さんその他とは訣別したということだし、そもそも最初から訣別しており交わることが一度もなかったのだということだ。

私は実践ではなくただひたすら認識に生きるということである。つまらぬ認識かもしれないが、それでもいいのだ。

障害児も家族も苦労するだろうが、それは私には《祝福》とかいうことではない。

私には新しい生命を祝福するという発想がそもそもない。障害児だろうとそうでなかろうと関係がない。

肯定する、祝福するというようなことに、思想的、倫理的意味があるとは私は少しも思わない。それは田口さん個人の信仰であるだけで、彼以外の他人には全く関係ない。

私には辛辣な感想しかない。

君がそういうことを信じたいのならば、それは君の勝手であり自由だが、君以外の他人には関係がない、という意見しかない。

私にはどんな倫理も信仰も無意味だし、そういうことが嫌いである。

Twitterでごく僅かな人々を観察しているが(田口さんのことではない)、そういう人々の考え方は当然自分とは大きく異なっている。しかしそれはそういうものなのだろうし、そういう人々が何とかうまくやっていけることを祈らずにはいられない。

例えばトランスジェンダーのこの人だが、彼女が、《社会民主主義よりも新自由主義のほうが自由だからいい》、《権力と金銭こそが大事である》、《製造業に打撃だから原発をやめるのに反対である》というようなことに私自身は同意しない。けれども、彼女にはそのように考える理由があるということも、観察から明らかである。彼女が新自由主義の競争に勝利して権力と金銭を得ることができるのかどうかは不明だが(常識的に考えれば、それはできないだろうと予測すべきだろうが)、ともかくうまく生きていってほしいと思う。https://twitter.com/#!/Shoko_fortia

いろいろな人々の多様な考えに接するとしても、私には何もいえないのだから、最終的に無力である。

硝子たんさんや彼女の友達のトランスジェンダー達だけではなく、Twitterに存在している年若い人々の多くの考え方が私には理解できないが、そういうことも仕方がないであろう。

例えば屁理屈や理念はつまらず《力》がいいから右翼になるとかいうのは私には分からない。だが、他人がそう考えてしまうのをどうすることもできないだろう。どうにかできると思うならば越権である。

"Orange was the color of her dress then blue silk", "Sophisticated lady", "At-fw-you", "Peggy's blue sky light", "So long Eric". "At"は「アート・テイタム」、"Fw"は「ファッツ・ウォーラー」のことらしい。Jaki Byardのピアノが光る。"So long Eric"は何度聴いても名曲。

例えば古代のタレスから現代のアガンベンまで読むということを万人に勧めることはできない。しかし、多くの人々は余りにも性急に結論を求めてしまう。それも致し方がないことだ。彼らは《生きたい》のであり、彼らの生存を支えてくれる言葉を求めているのだからだ。だから本を読むのは迂遠だからニコニコ動画で済ませるとかいうことになる。だが、ニコニコ動画を視聴してみても、東浩紀が使っている表現が分からないはずだから、結局同じことだ。早道や近道などないのだ。

多くの人々にとって哲学は専門ではなく一生の関心事ではないから、彼らの哲学とは《生きるための前提的な枠組み》であり、結論のようなものである。だがしかし、彼らが哲学においては自明な結論など一つもないのだと知ったならば驚くだろう。事実をいえば、どんな生であれそれを支え保障してくれる理論的な根拠など存在していない。しかし、《根拠など存在していない》のは不安だし堪え難いから、人々はありもしないものを求めてやまないのだ。

田中信正『春宵』。

"Off minor" (Thlonious Monk)

確かなのは、○○歳までは理論的な認識で、それ以降は実践、生であるというような都合の良い区分がないということだけだ。フッサールは一生《現象学的還元》を続けたが有意味な結論に到達しなかった。だがそういう人々は彼だけではない。