フッサール

@sunamajiri 木村敏が文芸批評家(マイナーな人です)に反論して、テキストに即して、ハイデガーにおいては存在は超越的である(存在者に対して超越であるという意味です)といっていましたが、もし彼が正しければ、スピノザの神・自然・実体とは違うということでしょうね。

@sunamajiri 仮に存在を実体、存在者を様態に対応させようとしても、私の理解、記憶が正しければスピノザの実体は様態を離れて自存するものでも超越的なものでもなかったはずです。そういう意味でハイデガー存在論スピノザとは異質なのではないでしょうか。

@sunamajiri 17世紀の問題は、有限な存在が無限な存在を認識できるのだろうかということであり、デカルトスピノザライプニッツはそれぞれに回答しましたが、ハイデガーのいう存在の思索というのはちょっと違っています。具体的にどう違うのかはよく分かりません。

@sunamajiri ただ私はハイデガー以前にフッサールを疑います。彼のいう不動の《大地》、《原方舟としての地球》は後期ハイデガー同様神話的な概念なのではないでしょうか。彼の後期哲学は、世界定立を完全に排去できなかったという意味ですが、哲学は不可能だということだと思います。

@sunamajiri フッサールも日常的に生活している一人の人間だから、世界があるということを括弧に入れ続けることができなかったとしても、それは最終的に常識と完全に同一の意見になっただけです。

@sunamajiri 世界定立を中性化するとか括弧に入れるという『イデーン』は凄かったと思いますが、最終的に不可能であるという結論だったと思います。

@sunamajiri 私がフッサールに疑問を持つのは、信憑というような考えでは、日蝕地震のような現象すら理解できないからです。「これまで毎日毎朝朝には太陽が昇ったから、明日も昇るであろう」と私が期待するとしても、根拠がありません。日蝕の場合もあり得ます。

@sunamajiri そして天文学の知は日蝕を予測できますが、ただの日常的、経験的な信憑には予測できません。地震についても、地震学がX年Y月Z日に必ず大地震が起きると予言できなくても、一定の期間内に大地震になる確率は何%かはいうことができるし、それで十分なはずです。

@sunamajiri ただ、フッサールのように大地は動かないとか、地球は原方舟だなどと考えても無意味なのは自明でしょう。生活世界に定位するのは事実上知を抛棄することではないでしょうか。彼が自然科学と異なる学知があると考えたとしても、そういうものはなかったと思います。

@sunamajiri 存在と存在者(特に現存在)との間に「存在論的循環」があるといわれますが、一般的な表現と論理でいえば、或るXとそれを根拠づける何かのいずれが優位にあるかいえないということです。存在が存在者に対して超越だとしても、現存在から出発しなければ認識もないのでは。

ヒュームが懐疑論ではなく自然主義だとしても難しい、というのはフッサールをみれば分かる。事象Aに事象Bが引き続いて起こる事例を多数観察したから、A→Bは必然的連結であることにならない。それは帰納推理のどうしようもない限界だ。「太陽が昇る」のを百回観測しても、日蝕を理解できない。