デカルト、スピノザ

@sunamajiri 國分功一郎さんについては彼の本を読んでから判断しますが、オランダ語ラテン語で読んだわけではなくても、私自身もスピノザを読んだから自分なりの意見があるのは当然です。私はスピノザに限らず誰でも歴史的に実在した○○と考えます。

@sunamajiri スピノザは17世紀のオランダに存在した歴史的なスピノザであり、シェリングは19世紀のドイツに存在した歴史的なシェリングであると捉えるということは彼らのテキストを歴史的なものと捉えそれ以上の意味を求めないということです。言い換えれば絶対視しないということです。

@sunamajiri どんな哲学者や哲学者以外の書き手、思想家(というのは、例えばマルクスが厳密な意味で哲学者かどうか不明だからですが)であれ絶対化したくないから、客観的に読解したいということです。スピノザであれば、彼の個性とは別に17世紀の思想の枠組みがどうしてもあります。

@sunamajiri 今手持ちで検討可能なのは以下です。『デカルトの哲学原理』、『知性改善論』、『国家論』、『エティカ』。いずれも岩波文庫ですが、『エティカ』は中央公論社バックス世界の名著の翻訳もあります。岩波より中公のほうが読みやすいです。

@sunamajiri 私の読書はつまらない訓詁学かもしれませんが、例えばネグリのような変に「独創的」な解釈は自分はいやだから普通に読みたいということです。「世界の名著」ではスピノザライプニッツカップリングされていますが、ライプニッツを読むのは難しいと感じます。

@sunamajiri ライプニッツが難しいのは、ごく普通に読めば到底納得できない主張が数多いからです。例えば彼は無批判にキリスト教の神やアリストテレスの目的因を肯定します。そういうことには疑問ですが、しかしそこで躓けばライプニッツを読むことは不可能です。

@sunamajiri 今読めないのは『神と人間の幸福に関する短論文』、『神学・政治論』、『書簡集』(いずれも岩波文庫)です。スピノザが著したもので邦訳がないものに、オランダ語だったかヘブライ語だったかの文法書があったはずです。そういうものを書いたのは少し変わっています。

@sunamajiri 確認ですが、『哲学原理』で表象的事物=res imaginabiles、表現的=repraesentative (p.47)

@sunamajiri 「というのは、その観念のうちに単に客象的に、即ちいわば観念像のうちにあるものとして(tanquam in imagine)含まれている全技術は、すべてその原因──どんな性質の原因であるにせよ──のうちに含まれていなければならない」

@sunamajiri 「しかも少なくとも第一原因・主原因としては、単に客象的もしくは表現的(repraesentative)にではなく、実際に形相的もしくは優勝的に含まれていなければならないからである」

@sunamajiri p.47では「事物についての我々のうちにある観念や表象」といわれています。

@sunamajiri 私には文献的に実証できない主張は全部無意味です。その意味で頑固で訓詁学的です。スピノザの意見がどうあれ、彼がrepresentation, imaginationに当たるラテン語オランダ語を一度も肯定的に使用しなかったかどうかは精査しなければ分かりません

@sunamajiri 岩波文庫の『エチカ』では、表象=imaginatioです。

@sunamajiri 『知性改善論』では表象力=imaginatioです(p.24)。

@sunamajiri スピノザがimaginatioについて語っているのは少し分かりましたが、representatioについてはどうでしょうか。

デカルトスピノザを少し検討するが、限界を感じるのは、手持ちの資料では十分ではないということだ。彼らがスコラ哲学を批判しながら、アリストテレス=スコラ的な用語法を濃厚に残している事実(例えば「形相的」「客象的」の区別などがそれだ)には注意すべきだ。中世からの切断は簡単ではなかった。

中世哲学の専門家はデカルトの論文など中世だったら大学生レヴェルなどといいたがるが、そういう意見にも疑問なのは、中世から決して近世・近代的な認識や実践が出てこなかったからだ。形而上学として複雑、繊細微妙だったとしても、それはただそれだけのことだ。

多くの人々がデカルトを批判したが、私のみるところ最も重要なのは、チャールズ・サンダース・パース直観主義の否定だ。彼は記号を用いずに思考することなどできないと考えた。同時代のベルクソンの主張より妥当だと思う。

しかしそういうパースの論点の多くが、明証性に訴えることを拒否するライプニッツ形式主義に先取られていたのかもしれない。

@sunamajiri スピノザを読んで疑問というか不思議なのは、神の観念、円の観念、ペテロの観念などと語ることですが、神はともかく、円のような数学的対象と「ペテロ」のような経験的な個人(個物)は存在論的なステータスが違うのではないかということですが、17世紀はああなんですね。