ヒューム

ヒュームは懐疑論だというカントも、スピノザは無世界論だというヘーゲルも、ただの誤解だった。ヒュームは、20世紀にそう解釈されるようになったように、自然主義だというべきだし、スピノザにしても、神しかないとか、一切の個物が神へと溶けてしまうというようなことではない。

カントが因果性をただの観念連合、習慣ではなく、範疇の一つと看做したとしても、妥当かどうか不明だし、そうしたから自然が絶対に斉一的であるということにもならない。

ヒュームが彼の哲学によって病んでしまった(哲学という病い)のは二つ原因があっただろう。つまり、一つは、一切がバラバラな印象、観念に還元されてしまい有意味な関係、関連が何もなくなってしまうということ。もう一つは、数的関係を除く全てが「信念」「習慣」になるから確実なものがないこと。

ヒュームは、「信仰のために知識の場所を空けた」(カント)どころか、全面的に「信念」の哲学者である。彼にとっては、「真知(knowledge)の範囲は狭い」どころか、そういうものがあるかどうかも疑わしい。ただ、信念の形成という相でみると、彼の哲学思想は自然主義である。