アリストテレス、デカルト

アリストテレスが偉大でも、近世・近代まで知識の一大発展があり得なかったのはどうしてだろうか。少し不思議である。中世においては(イスラーム経由のアリストテレスだが)アリストテレスが無謬の権威と看做されて(彼は「哲学者」という普通名詞で呼ばれた)絶対視されたということはあるだろうが。

一つは数学的自然学でなければ自然認識に成功しなかったということだろうが、そのようなものの起源は合理主義というよりも、一つはピュタゴラスプラトン主義であり、もう一つは魔術のようなものであった。それを過大評価すべきではないが。

「明日海戦がある」かどうかは蓋然的だと普通は考えるが、ストア派のように一切は必然的に決定されており「運命」だという考え方からは偶然の余地がなくなってしまう。

「海戦」の問題は20世紀以降の形而上学や論理学の問題である。つまり、必然性/偶然性/現実性/可能性の問題である。普通、未来に関わる判断は蓋然的だと考える。が、全ては決定されているのだという人々もいる。ドゥルーズが「必然」と「運命」を区別するのには根拠がないと思う。

《何故アリストテレス以降の思考が不毛だったのか。》《何故デカルトだけが自然学を構築できたのか。(彼以降の哲学者達にはできなかった。科学の認識の後追いでしかない。)》

一つはアリストテレスの三段論法が誤謬推理を抑止しても認識を拡張しないからだ。「全て人間は死すべきものであり、且つ、ソクラテスが人間であるならば、ソクラテスは死すべきものである」というとしても、大前提(「全て人間は死すべきものである」)をどうやって論証するのか。それはできない。

だから近世・近代は帰納推理を確立しようとしたり、仮説的推論(アブダクション)を考えようとしたが、基本的には困難であった。

「人間」という生物種に分類される個体が一つの例外もなく絶対に死ぬのだというためには、生物学的な解明が必要である。そもそも「死」を定義せねばならぬ。