高橋竹山

佐藤貞樹『竹山・その芸の原点』《高橋竹山(本名・定蔵)は明治43年(1910年)、青森県東津軽郡中平内村小湊で生まれた。2つか3つの年に麻疹をこじらせ半ば失明。おなじ年ごろの村の子供がその頃、6 、7人も失明したという。大正2年(1913年)に青森県をおそった大凶作は米二分作というひどさで、「草根木皮を食として辛うじて露命をつないだ」と記録にある。ことに平内地方の被害は大きく、とても医者にかかるどころの話でなかった。竹山の家では5つ6つの時まで飯を炊くことはなく、竹山は両親が使われていたヤマイチという村の富豪から毎日の帰りにもらってくるコビ(飯のおこげ)をたべて育った、という。失明に加え、このような貧しさのなかを生きねばならなかったきびしさ、かなしさ、そしてたくましさこそ、竹山の芸の底を流れているものであろう。
小学校にはいかなかった。ぼんやりとものの輪郭しかみえない竹山にとって、山野の匂いと鳥のさえずりはなによりの友であり、遊びと自然が学校だった。しかし、貧しい小作農家では盲目の子供でも遊んではいられなかった。農耕馬の世話は幼い竹山の得意な仕事であった。年ごろになり、だんだん口過ぎの方法を考えなければならなくなったが盲人にできることといえば、三味線をもって唄ってくる盲目の遊芸人(ボサマ)のように門々に立ってもの貰いに歩くしかなかった。音のでるものはなんでも好きだったし、三味線の音も好きではあった。が、この地方でホイトと呼ばれた芸人になり、ものを貰って歩くのはどうにも恥ずかしくて嫌だった、自分にはとてもできそうにないと悩み、2、3年もためらったあとやっと決心したのは15の年になってからだった、と竹山は述懐している。好きで選んだ道でなかった。私には、そうするしか生きる手だてがなかったこの目の見えない少年のせつなさが、いまも竹山の三味線の深い底の方からかすかに聞こえてくるように思えてならない。》