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自分が貧乏だから資産家はいやだというのは個人の自由だが、資産がなければ自然エネルギーの事業もできないというのも客観的な事実だししょうがないのではないのか。

弁証法というとわけのわからぬ要素がかなりあるが、言語ゲームにはそれが少ないとはいえるだろうが。

こういうことをいう橋下徹はウケるし、確かに池田信夫よりましだが、私は支持しない。https://t.co/Anz6JsxD

なぜなら自然も物質も「話す」ことはないだろうから。

マルクス弁証法よりウィトゲンシュタイン言語ゲームのほうがスマートにみえるが、本当にそうなのだろうか。

例えば存在と非存在の対立を揚棄すると「生成」になるとかいうヘーゲルのロジックを盲信する人は誰もいないだろう。

もし弁証法がいえるとしたら歴史についてだけだろうが、それすらも疑わしい。なぜなら弁証法で説明してしまえば歴史は合理化されてしまうからだ。例えば、或る時期に或る社会がAという方向に極端に進んだとしたら、次の時期にはその反対のBという方向に進むとか、最終的に中間くらいのCで落ち着くなどはあるかもしれない。しかしそれは法則というほどの法則ではないだろう。歴史や社会に「法則」があるかどうかは疑わしい。

19世紀フランスの社会学者は100以上の「社会法則」を発見したそうだが、現在顧みられない。

医者はダメな場合もあるよね。薬で解決できないケースとかね。 RT @ogatakehikky: @v41f femmelets @ptneet ぶしふが言うと説得力あるのう。

精神科医には薬だすしかできないからねー RT @ptneet: @ogatakehikky 完全に薬漬けやね 日本の精神医療はなんとかならんのかね?

Powellの死因が「栄養失調」だったのを思い出した。

ヒトラーのやったことは、公務員の首切りとかいうレベルじゃない」のは事実だが、それでも橋下徹ファシストなのではないのか。

東浩紀
橋下徹ヒトラーやナチになぞらえるって、日本では左翼のひとが好きだけど、ホロコーストを矮小化する比喩なのでむしろ政治的に正しくないんじゃないかな。ヒトラーのやったことは、公務員の首切りとかいうレベルじゃないですよ。

ヒトラーのやったことは、公務員の首切りとかいうレベルじゃない」のは事実だが、それでもやはり橋下徹ファシストなのではないのか。

ユダヤ人を大量虐殺しないから公務員の首切り、社会保障の削減などをどんどんやってもいいのだということではないだろう。

【cyubaki3との対話】
いーぐる掲示板の後藤さんとC3の対話ではないが、私も「哲学の終焉」を考えている。
具体的にはフッサールで哲学は終わったということだ。
そのフッサールすら成り立つかどうか分からない。
フッサール以降というのは、超越論的領域から「われ」を追放して意識一般にしてしまった『自我の超越』のサルトル、さらに「意識」という規定さえ取り払って非人称的で前個体的な領域というだけにしてしまった『意味の論理学』のドゥルーズなどだが、そういうものはもう言葉の伝統的な意味での哲学ではないだろう。
英米系は超越論的な領域をそもそも認めず、心を「脳の状態」に還元する「表象主義」の『心を自然化する』とかだが、こちらも経験科学があるだけで哲学は存在していない。

私のブログを読んでも何をいっているかわけがわからないが誰と喧嘩しているかはよく分かるというのが倉数さんの意見だったが、まあその通りだろうな。

10年間ひっきりなしに次から次に喧嘩を繰り返してるからな。

喧嘩しなかった人は誰もいないはず。

最近読んで一番面白かったのは『声と現象』だったが、20年前に読んでおくべきだったな。

デリダは『声と現象』『エクリチュールと差異』『グラマトロジーについて』を押さえればまずいいだろう。私は邦訳は悪くないと思ったが、良くないというのが王寺さんの意見だった。彼が正しいかもしれない。

いずれにせよ彼ほどフランス語ができないのは事実だし。彼は長年フランスに住んでいたからね。

田口さんだってフランスに留学していたし、やはりそのくらいじゃないとフランス語、フランス哲学の達人にはなれないが、私にはそういう経済的余裕も能力もまるでなかった。

学部とか修士でフランスに留学しておく、というのが一つのパターンだよね。

大学院の先輩連中もほぼフランスに留学していたし、そうできない人は「失踪」したりすることになる。

Charles "Pee Wee" Russell参加の音源は日本では廉価盤、海賊盤で出回っていたが正規盤は音質が良いな。

Charles "Pee Wee" Russellは"trad"だといわれているが、もともとニューオリンズジャズとかの人だろうが、聴いてみるとちょっと苦労しているようだ。テイタムと共演したバディ・デフランコが困惑したのと同じだろう。

NAMは無意味だったが、彼が今やっていることが無効かどうかは分からない。
が、私が彼と行動を共にする気が少しもないのは事実だ。

常識や哲学は(両者は同じではないが)直接経験、感覚質から出発するが、経験科学が感覚質に到達するのは容易ではない。質を説明するのも意識を説明するのも難しいし、まして自己意識(「私」)の生成などを説明できるはずがない。ただの臆測だろう。

或る脳の状態と感覚質に何か関連があるかもしれないと推測しても不合理ではないが、因果関係を立証するのは極めて困難だろう。

だから「クオリア」の話ばかりする茂木健一郎はどこか信用できない。

パースにとって純粋質は「それ自体として」存在するものだったが、ベルクソンの「純粋記憶」と同様疑わしい。知覚者を離れて「この赤」が自存すると考える合理的な根拠は何もないからだ。

パースが原初的な経験の姿を多数多様な感覚質が入り乱れるものだというのは、ジェイムズの純粋経験と同じだし問題はないが、彼が知覚主体と別箇に「質」それ自体が存在すると考えるのは飛躍だし根拠がない。

それから厳密にいえば、言語や概念抜きの裸の感覚世界などあるかどうかも疑わしい。例えば「この赤」というだけでも、既に言語によって構成された概念枠で認識している。たとえ幼児などを考えるとしても、前言語的な領域を想定するのは難しい。

ベルクソンやジェイムズもそうだが、言語では語れないというものを想定したところで、それすらも言語でしか語れないのもどうしようもないことだ。

彼らがプラトン主義を批判するとしても、知覚者を離れて質や記憶が自存すると考えるのはイデア論と同じ発想である。

調べたら坂田明の『ちからもち空を飛ぶ』既に所有していた。スガダイローの新譜『春風』も聴こう。菊地雅章なども放置しているし。(モンク全部を聴き直すほうを優先しているから。)

これはその通りでしょうね。確実にいえることだけから判断することはできません。→https://twitter.com/#!/takuomitaguchi/status/189587109361885185

ということは科学的確実性、合理性には限界があるということです。

科学には一定の限界があるでしょうが、当たり前でしょう。科学を絶対視する人々がおかしいのです。せいぜいいえるのは「高い線量の放射線を浴びたら死ぬであろう」ということくらいでしょうが、そういうことだけいっていたら被曝して死んでしまうでしょう。