回想
当たり前だが大学院も残酷な生存競争の社会だったが、私は競争がいやだった。
結構院生で突然いなくなってしまう人も多かったと記憶している。フィヒテだかをやっていた人も失踪してしまった。研究室の先輩は「哲学をやめた」と指導教授から聞いた。
哲学を職業にしたければ、好きなだけではだめで、文部科学省の基準に合致した活動をやらなければならないが、そういうことができない人はやっていけない仕組みになっている。現実問題としてはね。
哲学をやるにも社交性が必要だということだ。
哲学は独りでやれると勘違いされるが、読むだけならそうだが、大学で生き残りたいならそういうわけにはいかない。
フィヒテをやっていた人にせよベルクソンをやっていた先輩にせよ見るからに不器用そうな人だったが、やはり研究の世界も厳しいのだろう。私は早々と撤退してしまったが。
しかし大学から撤退してしまうと、大学以外の人々の99%は哲学になど関心がないから、やはりやっていけないということになる。3年に1回誰かが訪ねてくるだけとか、そういう世界になる。
私が大学院にいた頃、文部科学省がどうのこうのとかいうことで、大学院の方針が変わり、それまで以上に過酷になった。私の代は博士課程の試験を受験しても全員落とされるということになった。それでも根気がある人は翌年受験しただろうが、私は簡単に諦めてしまった。
そこで諦めなければよかったのだろうが、なんとなく面倒臭いしどうでもよかったのだ。
面倒臭いしどうでもいいというのは私の根本的なメンタリティだな。
努力しないからだめなんだろうな。
しかしパリ留学などせず船橋でだらだらしているというのが私にはお似合いかもしれないね。
なんかTwitterに南博さんが連続投稿しているが、彼のような美的な人も危機感をもつほどやばい状況なのだろう。昨日は鈴木勲さんの連投を見掛けた。
bud_powell
2012.04.09 19:17
ウォルター、わかっただろう?ピアノ・プレイヤーにかなうホーン・プレイヤーなんて、世界中を探したっていないんだよ。 via twittbot.net
パウエルに興味がある人がそもそも少ないからなあ。
パウエルよりアル・ヘイグ、クロード・ウィリアムソンがいいという人も多いし。
ヘイグ、ウィリアムソンがいいというファンの気持ちも少し分かる。
批評家がいうほどパウエルが「厳しい」とは思わないが、それでもパウエルを聴くのはちょっとたいへんだし負担だろう。
「クレオパトラの夢」だけならそうでもないだろうが、他はきついだろう。
so tired.
研究室の助手だった人(今何をやっているのか知らない)から彼が訳したデリダ論を2冊送っていただいたが、ソシュールやフッサールなどを読むのが忙しくて放置している。もう数箇月も。
デリダは民主主義的左翼だったそうだが、そういう良識的な意見が通る状況ではなかったのだろう。フランス共産党はスターリン主義だったし、その後の新左翼なども毛沢東主義とかだから、民主主義という人々は微温的とみなされてしまったのだろう。
でも2012年の現在から考えれば民主主義でいいじゃないかと思うけど。
デリダは慎重だから、彼の意見はマルクス論においても、マルクスのシュティルナー批判は正しくなかったのかもしれないという内容だったし、教条的になれるタイプではなかったのだろう。
しかしデリダの場合、慎重すぎるから積極的な主張や意見がないということにもなってしまう。「脱構築は正義である」とかいう無根拠な断言以外何もない。
彼が晩年ハバーマスと連携したのもそうでなければ実践的に何もできないからだ。「コミュニケーション的理性」にたとえ疑問でも、とりあえずはそれを肯定しなければ何もできない。「ハバーマスは馬鹿である」というのが蓮實重彦の意見だったが、もしそう思うとしても、「コミュニケーション的理性」を否定するなら社会的、政治的なことが一切何もできないのはどうしようもない事実だろう。
対話すれば合意に到達するというハバーマスは楽天的だし、アドルノからみれば随分後退だが、それも致し方がないだろう。
フーコーも晩年、カントの『啓蒙とは何か』を巡ってハバーマスと対話したが、彼もデリダと事情は同じだっただろう。
だからフランス思想といっても一枚岩ではないし、ドゥルーズが新哲学派を嫌悪しても、フーコーはグリュックスマンと対話したりしていた。
アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』は明るい理性が問題だという論旨だったはずだが、そこからみれば、対話すればいいというハバーマスはどうなのだろうか。
田口さんが昔、啓蒙主義の啓蒙というlumieresというのは複数の光源ということだとどこかで書いていたが、そういう明るい理性、知性をアドルノは問題にしたのだろうし、逆に啓蒙思想の専門家からみればアドルノが疑問だということだっただろう。
確かに理性、知性がナチに帰結したというような一般論をされても困るというのは確かだろう。原発事故をカントの理性のせいにする人と同じだ。
ナチスはフッサールが考えたような「非合理主義」でもベルクソンが考えたような「異教」でもなかっただろうが。
そういうふうにしか考えられないヨーロッパの人々はどうかしているとは思う。
鳩山由紀夫が訪ねてきた物真似芸人に「君は大人手当てを貰わなかったの?」と寒いジョークを飛ばしていた。 via ついっぷる/twipple
たとえ裁判が冤罪だとしても、小沢一郎が正しいとは私は思わないが、そう考える人が多いのもしょうがないだろう。
mixiでマイミクさんが、彼女のマイミクさんが急死して驚いたという日記を書いていた。それを読んで、閉鎖直前のamlで私などを告訴するとか脅していたとほほさんとかいう方が直後に病死したのを思い出した。すぐ訴えるとかいうのはろくでもなかったが、でも友達だったから、彼が亡くなったのはそれなりに悲しかった。
とほほさんは本多勝一などが好きな人だったはずだ。彼のweb-siteもあったはずだが、死後に閉鎖したと思う。
"Monk 'Round The World"というのは知られていないが、いい演奏だと思う。
ブータンはゲイ禁止なのか。イケメンの国王、なんとかしてくれ! RT @ogatakehikky: あーんブータンの仮面すきなのにぃーw
誰でもそう思うのでは。小沢でなくても。
kikko_no_blog
2012.04.09 21:04
「野田首相が消費税増税に政治生命を懸けると言っていますが」小沢「政治生命を懸けるならもっと他にやるべきことがあるのでは?」 ( #tohron live at http://ustre.am/G78i/1) via Ustream.TV
waseda_akane
2012.04.09 21:07
さっちゃんは、あかねオープニングスタッフ(水曜当番)でもありました。 さっちゃんの魂の唄声を、みんなであかねで聴きましょう! 反戦無罪!! 「前歯は無いけど愛はある。」 via webwaseda_akane
2012.04.09 21:07
4月12日(木)夜は、さっちゃんライブです!花&フェノミナン〜KORACORA、デモ、おまつりなどで大活躍してきたさっちゃんの初ライブは、 なんとあかねの迷イベント「ヘボくたっていいじゃないかライブショー」だったという、さっちゃんの 約10年ぶりのあかねライブです via web
「前歯は無いけど愛はある。」か。
さっちゃんは去年結婚したらしい。Twitterで読んだ。
小沢さんは『日本改造計画』の昔から国連中心主義だからPKO参加に賛成であり、新自由主義者だから自由貿易に賛成だっただろう。今ネオリベというとろくでもないものだと思われるが、小沢さんのような存在なのではないかと考えてみる必要がある。
kikko_no_blog
2012.04.09 21:15
小沢一郎「自由貿易には賛成だが今回のTPPはアメリカの思惑が色濃く出ているものなので日本政府がもっと国益を考えて主張しないとだめ」
小沢さんはもともと自民党だったのだし、総合的に判断する必要がある。彼が救世主のように待望されているのはちょっとおかしい。
きっこさんによれば、「やっぱり小沢さんは筋が通ってるわ。」ということになるが、さて、どうなるのだろうか。
小沢さんは筋が通っているのかもしれないが、そういう彼が権力を握ることがあるのだろうか。もし権力を握ったら、どうなるのだろうか。
たった今思い出したけれども、NAMの福祉セクションに書いていた統合失調症の若い男性がいて、その彼がNAMが解散して少しして自殺してしまったらしいという話を伝え聞いたことがあった。彼とは一回か二回会ったことがあるはずだ。彼のメールも繰り返しが多い実に独特なものだった。NAM解散後は浅輪さんがやっていたTCXというサイトにちょっとエッセイを寄稿していたのを読んだことがある。TCXには私も少し書いたが、メインコンテンツは信太さんという人が描いた漫画だった。『トランスクリティーク』を漫画にしようという野心作だったが、その彼もその後どうしているのだろうか。全く情報がない。
浅輪さんのサイトには考え方が全然違う多くの人々が書いていたから、そういうものを作ったという点では彼は公平で偉かったのかもしれない。
その浅輪さんその人も、今どうしているのかは情報が皆無なので見当もつかない。彼は英語がよくできて、そして経営学に詳しい人だった。
彼女の意見も分かるけど、前原さんはともかく鳩山さんはみんなに邪魔されたんじゃないの。だから無力でいいということではないが。→https://twitter.com/#!/kikko_no_blog/status/189363082055794689
歳を取れば死者の記憶が増えるのは当然だ。十代の頃は死んだ知人などいなかったとしても、私も37歳になるのだから、死んだ知り合いが大量にいるのも自然なことだろう。年配の人もいれば、若くして亡くなった方々もいる。生死も不明な失踪した人々もいる。究極さんとか。
さっきの若い人に戻るが、彼が死んだのが事実なら、NAM解散後に精神病の人が二人死んだことになる。彼らが書いた文章を想起して検討したが、実に独特な文章だったと思う。確かに意味を了解するのに困難を感じた。きっといろいろと大変だったのだろうと推察される。例えば飛躍や混乱があったり、同じことの執拗な繰り返しがあったりしたが、そういうこともどうしようもなかったのだろう。
福祉セクションの人々は精神病者のことを分かっているから、そういうメールにも暖かい対応だったと思うし、私もただ黙ってメールを読んでいただけだったと思う。彼が自殺したとしたら、動機が何だったのかということは完全に不明である。
ただよく分からないが、メールのやりとりなどが精神療法的な役割を果たすというようなことはあり得なかったようだ。残念なことだが。