langageを「言語活動」と訳すのは誤訳なのか?

「言語は必然的に社会的なものですが、言語活動は必ずしもそうではありません。言語活動は特に個人において示すことができます。それは何か抽象的なもので、それが現実化されるためには人間がいなくてはなりません。個々人の中に存在するこの能力は、おそらく他の能力と対比することができます:たとえば人は歌う能力を持っています。たぶん、社会集団の導きがなければ、人は歌を発明しないでしょう。」

フェルディナン・ド・ソシュールソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート』(影浦峡田中久美子訳、東京大学出版会)、p.9。

「langueとlangageに対しては、これまでに、「言語」/「言語活動」、「ラング」/「ランガージュ」、「言語体」/「言語」等、さまざまな訳語が提案されている。本訳書では、ソシュール研究やフランス哲学系を中心に使われている用語よりも、より一般的な用語をあてることを原則とし、小林英夫訳『ソシュール一般言語学講義』(東京:岩波書店、1940年:以下では小林訳『講義』と略記する)と同じく、一貫してlangueを「言語」、langageを「言語活動」を訳出する。本講義では、langueは経験的対象としての言語および言語学の核となる理論的対象としての言語を指すために使われているが、本講義そのものが理論的対象としての言語を確定するプロセスでもあるため、たとえば一方を「言語」、他方を「ラング」と訳しわけるのは講義そのものの流れをかえって見づらくする。また、理論的対象を強調して「ラング」と訳出すると、多くの場で議論の流れがスムーズにいかない。なお、langageを一貫して「言語活動」と訳すと、いくつかの場合、日本語の語感としてぎこちなくなることがあるが、ほとんどの場合、比較的スムーズに読めると考えている。ただし、langageを含む連語や複合語においては、langageに「言語」をあてることもある。たとえば第2部に初出のfaculte du langageは「言語能力」と訳す。」

同書、p.1。