いーぐる掲示板への投稿:加賀野井秀一、ソシュール、丸山圭三郎

加賀野井秀一『20世紀言語学入門』(講談社現代新書
フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学第三回講義』(相原奈津江・秋津伶訳、エディット・パルク)

いずれもいい本です。加賀野井の本は20世紀を概観するのに役立ちますし、相原・秋津の翻訳は非常に流麗で読み易いです。小林英夫の日本語訳は超難解だそうですから、彼女達の翻訳を読むほうがいいと思います。

「身分け」には丸山圭三郎が『言葉と無意識』(講談社現代新書)p.166以下で言及していますが、どうなんでしょうかね。もともとは市川浩の概念だそうです。以下が引用されています。

「〈身分け〉は、身によって世界が分節化されると同時に、世界によって身自身が分節化されるという両義的・共起的な事態を意味する。」(市川浩『〈身〉の構造』)

丸山自身は、〈身分け〉を「動物一般がもつ生の機能による種独自の外界のカテゴリー化」であると捉えます。しかし、彼の意見では、人間だけが〈言分け構造〉をもっているそうです。

彼の意見では、象徴化能力としての言葉によって生み出されたものは、「身の延長」だから過剰だということです。例えば、過去・未来、背後・前方、来し方と行く末を差異化するのは言葉によってです。人間は言葉によって「今ここ」の制約から解放され、「約束する動物」「嘘をつく動物」になったとのことですが、それは確かにその通りでしょう。

丸山が言葉の産物が過剰であると主張する第二の理由は、技術によって意味を生産するからです。彼の表現では、「身の延長である人工的道具」によって、ということになります。具体的には望遠鏡、顕微鏡、レントゲンなどです。

そして言分け構造の基底には欲求ではなく「欲望」があるといいますが、ここまでくると経験科学としての言語学を大幅に踏み越えてしまっています。

彼の結論は以下です。「こうして私たちは、言葉以前の知覚を求めながら、再び言葉のもとに連れ戻される。人間の知覚は言葉による認識と切り離すことができない。それ故にこそ、「知覚には、まるで言葉のようなロゴスが存在する」(メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』)」。言葉は、いわばもう一つの器官をなって身に植え付けられている生理なのである。」(p.174-175)「身」、「生理」には傍点が振られていますが、インターネットでは再現することができません。

『言葉と無意識』自体は小さな新書に何から何まで詰め込み過ぎだというのが率直な感想です。その結果、論及されている個々を丁寧に論じていません。例えば、精神分析について、フロイトユングラカンを羅列しますが、彼らが相当に違い、対立さえしている(フロイト及びラカンユングの対立)という事実は無視しています。

それでもいいのでしょうが、丸山の議論は壮大な文化の一般理論になってしまいます。それはソシュール自身の言語学、言語思想からは随分離れてしまったものです。

ソシュール自身に帰って、ソシュールシニフィアンシニフィエの概念でジャズを考えることへの疑問を述べておきます。例えば、「赤」というシニフィアンを聴いて、我々は或る一定のシニフィエを思い浮かべます。ですが、例えばテイタムの奏でるピアノの或るフレーズを聴いて、一定のシニフィエを思い浮かべる人がいるでしょうか。通常、ジャズ・ピアニストの奏でるフレーズが喚起するのは、シニフィエではなく、感情、情動なのではないでしょうか。