近況アップデート

"Cela est bien dit, repondit Candide, mais il faut cultiver notre jardin." http://abu.cnam.fr/cgi-bin/donner_html?candide3

「でも私達の庭を耕さなくてはなりません」というヴォルテールの『カンディード』はいい、というのが王寺さんの意見でしたが、それから十年経ってしましました。

カンディード』が書かれた背景は18世紀のヨーロッパ社会であり、リスボンの大地震などがあるこの世界が「最善」であるはずがない、というライプニッツ楽天主義への批判が込められていました。私達も、東北で大震災があったこの世界が最善なのか、と考えてしまうでしょう。

しかも18世紀は現代と違いますから、地震の被災者の救援もされず放置されただけでした。悲惨はさらなるものだったというべきでしょう。

カンディード』の主人公も諸国を遍歴してひどい目に散々遭った挙句、「庭を耕作する」結論に到達します。

話は飛躍しますが、大学時代のことです。当時も不愉快なことが多くありましたが、左翼学生と話をして、私が、プラグマティズムが好きだ、といったら嘲笑されたことがありました。

或いは党派が違う別の左翼と話した時、自分は自由主義者であるといったら、どうしてそんな古臭い思想なのか、とかいわれたこともありましたが、確かに自由主義などくだらないかもしれませんが、だからといって黒田寛一が深遠だという話でもないでしょう。

Charlie Mingus Sextet with Eric Dolphy "Cornell 1964".

実験君が私を修正主義だというのが疑問なのは、仮説を経験でテストして修正するプラグマティズムが当然だと思うからです。では実験君は、修正主義ではないなら教条主義なのでしょうか。そういうこともつまらないと思います。

哲学思想でRLLに負けているとかいうのもわけがわかりません。私は最初から競争していないのですから、どうして負けてしまうのでしょうか。

私がそういう実験君を友達だと思わないのも当然です。

どうしてこういうことになってしまうのか、よくわかりません。#yjfc_fukushima_nuclear_plant 福島第1 汚染水また海に流出 http://t.co/iYnnWJJh

先住民の伝統的な思想を除けば、プラグマティズム(パース、ジェイムズ、デューイ)はアメリカで最初の本格的な思想ですから、そういうものを簡単に馬鹿にできると思うほうがどうかしています。それ以前にも、例えばエマソンの超絶主義などがあったとしても、それは哲学というよりも文学でした。

近代日本でいえば、西田幾多郎の『善の研究』が最初のオリジナルな思想だというのと同じです。それ以前にも、カント研究の桑木厳翼などがいたとしても、彼らはヨーロッパの思想を紹介しただけでした。その『善の研究』には、ベルクソンと、それから先程紹介したジェイムズの「純粋経験」が深く影響しています。経験、体験を考えるならばジェイムズの思想の検討を外すことはできません。

ジェイムズの『根底的経験論』は非常に不思議な本です。彼は新カント派などと闘いますが、「われ思う」ではなく「われ呼吸す」というようなことをいいます。彼は心とか魂をギリシャ語のもとの意味に戻って息(プネウマ)と考えます。

近代において支配的な思想というのはその後顧みられず忘れられています。フランスにおけるブランシュヴィック、イギリスのブラッドリーなどのヘーゲリアン、ドイツの新カント派が今読まれているでしょうか。『シンボル形式の哲学』のカッシーラーだけは読み継がれているでしょうが、リッケルト、コーヘンなどは読まれるどころかまともな翻訳もありません。