近況アップデート

カウンセリングが終わって、彼氏と北朝霞マクドナルドで食事して1時間カラオケボックスで遊んでから帰宅しました。ですから、今日はUstreamの放送はできませんでした。彼氏は埼玉在住なのです。

私は自分と遊んで彼氏が楽しいのかどうか、ちょっと心配になりました。確かに私には他人の気持ちは少しも分からないからです。私には哲学とNAMにしか興味がないのですから、共通の話題がないのも当たり前ですし、そういうことに彼氏が不満であったり退屈なのも当然です。彼氏が私に飽きても仕方がないと思いました。

さて、シャリーアティーの感想を書きましょう。彼の本を読んで、彼の知識は該博だと感じました。マルクス主義実存主義サルトル)、イスラム思想をごたまぜにしたという非難もあるようですが、私が彼の本を読む限り的外れです。彼はマルクスサルトルに限らず、ソクラテス以前の哲学者やプラトンから現代のサルトルカミュに至るまで全部読んでいます。ヨーロッパ思想に限らず仏陀(仏典)も読んでいるし、イスラムの古典も当然読んでいます。それが妥当かどうかはともかく、アインシュタインその他の現代物理学者まで読んで参考にしています。ですから、そういう彼の意見は、最終的にイスラム教を擁護することが目的であったのだとしても、非常に公平ですし参考になります。

私が引用したいと思ったところは2箇所あります。最初は、p.85です。「決定論でもなく、完全自由でもなく、その中正である」というハディースがあるそうですが、私はどう考えてもそれが妥当だと思います。ハディースというのは、ムハンマドの言行と彼の優れた教友に関する伝承のことだそうです。

p.129ではシャリーアティーはそれをこう言い表しています。「中正=民衆(ナース)+慣習(スンナ)的法則」。イスラム教を支持しようとしまいと、そういう彼の意見は正しいと思います。

ふたつめは、p.229です。十年前NAMが分裂、崩壊して悩んでいたときに、NAMと無関係な友人がこのシャリーアティーの言葉を教えてくれたと思います。「実際にわれわれは、物質的であれ、非物質であれ、また天使であれ、ジンであれ、いかなるものも達成不可能な、驚嘆に値する栄誉、気質、崇高さ、美徳、知性、勇気、犠牲的精神、純粋な本性を体現した人々の例を知っている。だが同時にいかなる野獣、細菌、悪霊にもまして、卑しく、不純で、脆弱、醜悪、臆病、残虐な人々も存在する。人間は無限の完全性、高貴さ、美しさに達することもあれば、無限の卑しさ、醜悪さを極めることもある。このように人間は、一方では神に通じ、他方では悪魔に通じている。彼は無限に隔たる二つの絶対的〈可能性〉の間に存在している。つまり人間自身が、無限な卑しさのマイナス極から無限な高貴さのプラスの極を貫く道であることに他ならない。この道は存在の平原を横切り、あらゆるものに通じている。人間は自由かつ責任を担う意志、つまり選択を迫られる意志であると同時に、自らの意志と選択の対象である。バラモン教の表現を用いるならば、人間は道であるとともに、旅人、旅そのものである。 / つまり彼は腐土的な自己から神的な自己へ、絶えまなく〈遷って〉いるのである。」十年前友人から教えていただいたのがこの文章で確かかどうかは、今となってははっきり思い出すことができません。

シャリーアティーはパリに留学し、確かにサルトルの弟子でしたが、とりたてて実存主義的だとは思いません。むしろ彼はサルトルカミュを批判しています。彼の意見は、物理学など自然科学も尊重するし、もし社会法則があるならばそれも尊重するが、しかし人間には自由や責任、選択の余地があるというものですから、イスラムといっても、或る意味非常に常識的です。ですが、そこがいいのだと思います。どうみても極端な決定論も『存在と無』も現実的には妥当ではないからです。

黒田壽郎によれば、シャリーアティーは「胸のむかつくような西欧の猿真似はやめよう」と決断したそうですが(p.23)、そういう彼は西欧に無知ではありません。むしろ、あらゆる意味でよく知っています。プラトンからサルトルまで読んで検討、熟慮していますし、哲学以外の事柄、社会的、歴史的状況も知っていたはずです。ですから、そういう彼の意見には説得力と重みがあります。

「友よ、ヨーロッパを放棄しよう。胸のむかつくようなヨーロッパの猿真似はやめよう。人間性について絶えず声高に語りながら、見つけ次第人間を破壊するヨーロッパに別れを告げよう」(p.29)、これがシャリーアティーの4年にわたるフランスでの留学経験の結論です。

シャリーアティーは自らの非業の死を確実に予感していたそうです。自叙伝「カヴィール砂漠」からそれが読み取れるというのが黒田壽郎の意見です(p.31)。「死とはおぞましい悲劇であり、忌まわしい万物の消滅である。それは無に帰することでしかない。しかし自分自身から〈居を遷そうと試みる者〉は、まず死から始めるのである。この素晴らしい命令に耳を貸し、『自ら死ぬ前に死ね』という言葉に従って行動する人々は、なんと偉大であろうか」

1977年シャリーアティーは44歳でイギリスで心臓発作で死にますが、SAVAK(イラン秘密警察)がその死に関与しているのではないかという疑念が根強く残っているそうです(p.403)。

櫻井秀子の意見では、イスラーム哲学に豊かで多様な存在論現象学実存主義があったということですが、そういうことはありそうなことです。シャリーアティーが「アーヤ」と呼ぶものは個体ですが、彼は「スンナ」も考えます。「スンナ」とは「個人、生活、世界、人類史、諸社会、自然に支配的な科学的諸法則」のことです(p.386)。

もう少しシャリーアティーの意見を読んでみます。「人間は〈自覚〉によって自己の存在を確信する。人間の最高の資質は、自覚である。それは偶然獲得するものでもなければ、所与、天賦のものでもない。また感性や内的な照明を通して得られるものでもない。それは人間を〈自我〉に到達される〈他者〉との諸関係の中に見出される。〈自己以外〉を認識し、実感することによって、自己を発見するのである」(p.387)──これはシャリーアティー著作集、第24巻『インサーン(人間)』にある文章だそうですが、一般に、シャリーアティーが自我とか自己についていっていることはちょっと変わっていますから、注意する必要があるでしょう。

シャリーアティーが現代において批判される理由はふたつですが(ダバシ教授という人が指摘しているようです)、ひとつは、マルクス主義実存主義イスラム思想をごたまぜにしたということであり、もうひとつは、フランツ・ファノンから影響されたということですが、いずれも妥当ではないと思います。

シャリーアティーがファノンと交流があったのは事実ですし、ファノンの思想は過激で極端ですが、当時のアルジェリアの状況において妥当だったし、精神科医としてもまともです。ファノンの意見は、精神を病むアルジェリアの人民が、政治状況や植民地支配によって苦しんでそうなっているから、独立運動に蹶起するということでしたが、ひどい抑圧状況におかれた人民がそのせいで精神的にも病むということは当然あったでしょうから、ファノンがそう考えたのも当たり前だと思います。

シャリーアティーのいっていることでよく分からないことがあります。p.164以下で、彼が「私」について議論している内容がよく分かりません。p.307以下にも同様の議論があります。

今日はもう遅いですから、加賀野井秀一ソシュール』の検討は明日以降にしますが、これもいい本です。ただ、文献案内が一番役立つとも思います。入門書で済ませるわけにもいきませんから。